1580年、10年続いた石山合戦の末に父・顕如は正親町天皇の勅命による和睦を受け入れ、石山本願寺を退去した。しかし23歳の教如は和睦に反対し、一部の門徒と共に石山に籠もり続けた。「信長との和睦は門徒の血を裏切ることになる」と主張し、父と袂を分かった。その後も数ヶ月にわたって信長軍と対峙したが、最終的には退去を余儀なくされた。この強硬姿勢が後の東西分裂の伏線となる。
秀吉によって本願寺法主の座を弟・准如に奪われた後、教如は雌伏の時を過ごしたが、関ヶ原の戦い(1600年)で勝利した徳川家康に接近した。家康もまた、本願寺の巨大な宗教勢力を一つにまとめさせず分断しておきたいという政治的思惑があり、両者の利害は一致した。1602年、家康は京都烏丸七条の地を教如に寄進。これにより東本願寺が創建された。教如の我慢強さと家康の政治眼が生み出した歴史的な宗教分裂である。
1602年、教如は徳川家康から寄進された京都烏丸七条の地に東本願寺(真宗大谷派本山)を開いた。以後、浄土真宗本願寺派は西本願寺(准如の系統)と東本願寺(教如の系統)に分かれ、四百年を経た現在もこの体制が続いている。京都駅の目前に「お東さん」と「お西さん」が並んで建つ光景は、石山合戦から続くこの歴史的分裂の結晶である。「信長に抵抗した強硬派」としての教如の人生は、最終的に一大教団の創始者として結実した。