常陸国(茨城県)筑波郡の農家に生まれる。測量への関心を持ち、幕府の蝦夷地御用雇として蝦夷地(北海道)に渡った。現地で伊能忠敬の測量隊と行動を共にし、その下で精密測量術を習得した。1808年から1809年にかけて二度にわたり単独で樺太(サハリン)を探検し、島の北端まで踏破して樺太が大陸と海峡で切り離された島であることを確認した。この探検で北岸を調査した際に渡った海峡は、後にシーボルトによって「間宮海峡(タタール海峡)」と命名され世界地図に記載された。日本人探検家として国際的に名を知られる数少ない人物となった。帰国後は幕府に仕え蝦夷地・千島列島の防衛・測量業務に長年従事した。「寒地探検の第一人者」と称される一方、晩年は幕府の密偵として活動したとも伝わり、謎の多い人物でもある。その探検の記録「東韃地方紀行」は地理学史の重要文献であり、間宮の業績は明治以降の北方領土政策の基礎ともなった。間宮林蔵の故郷・茨城県つくばみらい市には記念碑が建ち、幕末最大の探険家の業績が郷土の誇りとして語り継がれている。