1867年、伊予国温泉郡(現・愛媛県松山市)に松山藩士・正岡常尚の長男として生まれた。本名・常規(つねのり)。父を5歳で亡くし、母方の祖父・大原観山の厳格な漢学教育を受けた。1883年に上京、1890年に東京帝国大学哲学科入学(後に国文科に転科)、1892年中退して新聞『日本』に入社、新聞記者として活動を始めた。1893年、26歳で発表した『芭蕉雑談』は、当時神格化されていた松尾芭蕉を「芭蕉の俳句は十中八九劣作」と批判、伝統俳壇に大きな衝撃を与え俳句革新運動の口火を切った。「写生」を理論的支柱に据え、見たままを写し取る客観的描写法を提唱、1898年雑誌『ホトトギス』を主宰し弟子・高浜虚子・河東碧梧桐らを育てた。短歌においても1898年『歌よみに与ふる書』で『古今和歌集』を否定し『万葉集』を称揚、根岸短歌会を主宰した。1895年日清戦争従軍記者として遼東半島へ渡るも帰途船中で大喀血、以後脊椎カリエスを病み寝たきりの生活が始まる。激痛と闘いながら『病牀六尺』『仰臥漫録』『墨汁一滴』など晩年の名随筆を執筆、1902年9月19日、東京・根岸の子規庵にて34歳で没。死の前日まで筆を執り続けた。