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PERSON
正岡子規
正岡子規
俳句・短歌革新の祖
1867-1902 · 享年 35歳
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生涯
1867年、伊予国温泉郡(現・愛媛県松山市)に松山藩士・正岡常尚の長男として生まれた。本名・常規(つねのり)。父を5歳で亡くし、母方の祖父・大原観山の厳格な漢学教育を受けた。1883年に上京、1890年に東京帝国大学哲学科入学(後に国文科に転科)、1892年中退して新聞『日本』に入社、新聞記者として活動を始めた。1893年、26歳で発表した『芭蕉雑談』は、当時神格化されていた松尾芭蕉を「芭蕉の俳句は十中八九劣作」と批判、伝統俳壇に大きな衝撃を与え俳句革新運動の口火を切った。「写生」を理論的支柱に据え、見たままを写し取る客観的描写法を提唱、1898年雑誌『ホトトギス』を主宰し弟子・高浜虚子・河東碧梧桐らを育てた。短歌においても1898年『歌よみに与ふる書』で『古今和歌集』を否定し『万葉集』を称揚、根岸短歌会を主宰した。1895年日清戦争従軍記者として遼東半島へ渡るも帰途船中で大喀血、以後脊椎カリエスを病み寝たきりの生活が始まる。激痛と闘いながら『病牀六尺』『仰臥漫録』『墨汁一滴』など晩年の名随筆を執筆、1902年9月19日、東京・根岸の子規庵にて34歳で没。死の前日まで筆を執り続けた。
人物像
革新精神に燃え、伝統を恐れず批判できる強靭な意志の持ち主。激痛と寝たきりの闘病生活7年間にも関わらず、最後の一日まで筆を執り続けた壮絶な精神力。野球を「ベースボール」を「野球(のぼーる)」と訳した語呂遊びを楽しむユーモアの持ち主でもあり、「打者」「走者」「四球」など野球用語の翻訳も行った(2002年野球殿堂入り)。
歴史的意義
俳句・短歌の近代化を成し遂げた最大の功労者。彼の創始した『ホトトギス』は今も続き、近代俳壇の母体となった。「写生」の理論は弟子・高浜虚子を経て俳壇の主流となり、夏目漱石も子規の影響で俳句・小説に開眼した(漱石と子規は東大同期の親友)。野球用語の翻訳・普及により野球普及の功で2002年野球殿堂入り。生地松山市は「俳句の街」を掲げ、松山市立子規記念博物館・道後温泉・道後公園に子規ゆかりの史跡が点在する。東京根岸の子規庵は晩年7年間を過ごした記念館として今も保存。
逸話・エピソード
夏目漱石との友情——日本文学を変えた絆
子規と夏目漱石(金之助)は1889年、第一高等中学校で同級となり生涯の親友となった。漱石は子規から俳句を学び、「漱石」の号も子規が与えたもの。1895年、英語教師として松山中学校に赴任した漱石の下宿「愚陀仏庵」に、結核療養中の子規が同居。52日間にわたり俳句談義を交わした。この期間に子規が句作に開眼させた漱石は、後に小説家として大成、『吾輩は猫である』『坊っちゃん』など『ホトトギス』に発表することとなる。子規の死から3年後、漱石はその影響下で『吾輩は猫である』を書き始めた。
『仰臥漫録』——病床から綴った生命の記録
1901年9月から子規は寝たきりの最晩年、毛筆で日々の食事内容・薬・体の苦痛・俳句などを克明に書き留めた『仰臥漫録』を執筆。「明治三十四年九月二日 午前 粥四わん、佃煮、梅干 牛乳一合ココア入 菓子パン数個 砂糖湯」など、痛みと戦いながらも生の細部を記録する姿勢は、近代日本散文の白眉とされる。同時期の『病牀六尺』も六尺の病床から世界を見つめ続けた絶筆エッセイで、新聞『日本』に死の二日前まで連載された。
ゆかりの地 — 1
子規庵
東京都
正岡子規が明治27年から明治35年に没するまでの8年間を過ごした住まい。結核に侵されながらも病床で『墨汁一滴』『病牀六尺』などの名随筆を書き続け、高浜虚子・河東碧梧桐ら門人が集う近代俳句の聖地となった。1945年の空襲で焼失、1948年に復元。東京都史跡指定。
─ 完 ─
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