近江国の出身で、生年は不詳。若くして秀吉に仕え、その卓越した行政能力から早くに頭角を現した。豊臣秀長の補佐役として大和国の統治に携わり、秀長没後の1591年には大和郡山20万石の領主として大和国全体を掌握した。石田三成・前田玄以・浅野長政・長束正家とともに五奉行に列せられ、豊臣政権の行政の中枢を広く支えた。太閤検地では全国の土地・石高を精査する大事業を推進し、農政の合理化と豊臣政権の中央集権化に多大な貢献をした。文禄・慶長の役では渡海した将兵の兵站と後方支援の全般を統括し、前例のない大規模な海外遠征を行政面で支え続けた。秀吉没後は石田三成との関係を深め、文治派の立場を鮮明にした。関ヶ原の戦い(1600年)では西軍に属して戦ったが敗北し、改易されて大和郡山の領地を没収された。以後は高野山に蟄居し、政治から距離を置いた。1615年、大坂夏の陣後に徳川幕府から切腹を命じられ、波乱に富んだ生涯を閉じた。