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PERSON
松平容保
松平容保
会津藩主・京都守護職
1835-1893 · 享年 58歳
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生涯
美濃高須藩の出身で、会津藩主・松平容敬の養子となった。文久2年(1862年)、幕府から京都守護職を命じられ、治安維持のため新選組を組織・指揮した。公武合体を支持して尊王攘夷の過激派を取り締まり、禁門の変(1864年)では御所を守って戦った。薩長が主導する討幕運動に反対し続け、孝明天皇の信任も篤かった。しかし孝明天皇の崩御(1866年)後は立場が弱まり、戊辰戦争(1868年)では朝敵(逆賊)の汚名を着せられた。会津若松城に籠城して明治軍と戦ったが、白虎隊をはじめとする多くの藩士・市民が犠牲になり、1868年9月22日に降伏した。日光東照宮宮司として余生を送り、1893年12月5日に58歳で没した。会津の人々は今も容保を「义公」として深く慕い、会津の悲劇は時代を超えて語り継がれている。新選組を指揮した人物として、近代日本の歴史の中でも際立った存在感を放っている。
人物像
義理を重んじる誠実な武人。命じられた京都守護職の職務を忠実に全うし、幕府への忠義を最後まで貫いた。「朝敵」の汚名を甘んじて受けながらも、その姿勢を変えなかった。
歴史的意義
新選組を指揮した幕末の重要人物として、また会津の悲劇の象徴として、今も多くの人に語り継がれている。会津若松の鶴ヶ城は容保公ゆかりの史跡として多くの観光客が訪れる。
逸話・エピソード
会津の悲劇——松平容保と白虎隊が象徴する幕末の義と敗者の涙
松平容保は会津藩主として1862年に京都守護職を拝命し、新選組を指揮して尊攘派の取り締まりを担った。孝明天皇からも厚く信頼されたが、明治維新後は逆賊とみなされた。1868年の戊辰戦争では白虎隊をはじめとする会津藩士が壮絶な戦いを繰り広げ、鶴ヶ城が落城した。会津若松藩の降伏後、容保は謹慎処分となり後に日光東照宮の宮司となった。「賊軍」として扱われた会津への同情と「義の会津」の精神は今も多くの日本人の心を動かし、毎年多くの人が鶴ヶ城・飯盛山を訪れる。
ゆかりの地 — 1
鶴ヶ城(会津若松城)
福島県
松平容保は会津藩9代藩主として鶴ヶ城を居城とした。文久2年(1862年)に京都守護職に就任し、新選組を組織して幕末の京都治安維持に当たった。鳥羽・伏見の戦い後に帰城し、明治元年(1868年)の戊辰戦争では官軍と1か月にわたる籠城戦を展開。白虎隊をはじめ多くの若者が散った末に開城・降伏した。鶴ヶ城は容保の忠義と会津藩の悲劇を象徴する城として後世に語り継がれる。
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