田安徳川家に生まれ、11歳で越前福井藩主を継いだ。橋本左内・横井小楠といった卓越した藩士・学者を登用し藩政改革を推進した。その開明的な姿勢と政治手腕が評価され、島津斉彬・山内容堂・伊達宗城とともに「幕末四賢侯」の一人に数えられた。将軍継嗣問題では一橋慶喜を推したことで、大老・井伊直弼と激しく対立した。安政の大獄(1858年)では謹慎・隠居を命じられた。井伊暗殺後に政界に復帰し、政事総裁職に就任して公武合体路線のもと幕政改革を推し進めた。大政奉還を積極的に支持し、明治維新後は議定に任じられて新政府の礎づくりにも関与した。福井藩在任中は藩士の西洋技術習得を奨励し、洋式軍備導入と殖産興業を推進した。蘭癖(西洋趣味)で知られる文人大名でもあり、1890年に62歳で没した。福井藩の藩政改革で残した業績は今も評価が高く、福井市立郷土歴史博物館では松平春嶽の偉業が丁寧に紹介されている。越前藩の洋式軍備導入や殖産興業の施策は福井の近代化の先駆けとなり、明治政府の模範としても高く評価された。