松前崇広
松前崇広
松前城築城主・幕末の老中
1829-1866 · 享年 37歳
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松前城を訪れると出会えます
ゆかりの地 2か所
へぇ、と思う三話
自ら築いた城が敵の手に——松前城の皮肉な運命
崇広が北方防衛のために心血を注いで築いた松前城は、その死からわずか2年後の明治元年(1868年)、箱館戦争で土方歳三率いる旧幕府軍によって数時間で攻略された。日本最後の日本式城郭は、完成からわずか14年で実戦に敗れる皮肉な運命をたどった。
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生い立ちから最期まで
文政12年(1829年)、松前藩9代藩主・松前章広の六男として福山城に生まれた。嘉永2年(1849年)に家督を継ぎ松前藩12代藩主となる。同年、江戸幕府より北方警備強化のための築城を特旨で命じられ、翌嘉永3年(1850年)に高崎藩の兵学者・市川一学に設計を依頼、安政元年(1854年)に松前城(福山城)を完成させた。同城は日本で最後に築かれた日本式城郭として知られる。その後、幕政でも異例の出世を遂げ、文久3年(1863年)寺社奉行、元治元年(1864年)老中格兼陸海軍総奉行を経て同年老中に抜擢された。慶応元年(1865年)、兵庫開港を独断で決定して朝廷の勅勘を受け失脚。翌慶応2年(1866年)4月25日、松前で熱病により38歳で死去した。箱館戦争(1868年)を見ることなく世を去ったが、その2年後、自ら築いた松前城は旧幕府軍・土方歳三の軍勢に攻略されることになる。
人物像
外様の一藩主でありながら幕政の中枢である老中にまで抜擢された、幕末屈指の出世を遂げた人物。北方防衛への意識が高く、幕命を受けて日本最後の日本式城郭を築いた実務家でもあった。
歴史的意義
崇広が築いた松前城は北海道で唯一の日本式城郭として現存し、桜の名所としても知られる。同じく崇広が命じた戸切地陣屋は日本初の西洋式稜堡(星形)陣屋として国の史跡に指定されている。
─ 完 ─
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