文政12年(1829年)、松前藩9代藩主・松前章広の六男として福山城に生まれた。嘉永2年(1849年)に家督を継ぎ松前藩12代藩主となる。同年、江戸幕府より北方警備強化のための築城を特旨で命じられ、翌嘉永3年(1850年)に高崎藩の兵学者・市川一学に設計を依頼、安政元年(1854年)に松前城(福山城)を完成させた。同城は日本で最後に築かれた日本式城郭として知られる。その後、幕政でも異例の出世を遂げ、文久3年(1863年)寺社奉行、元治元年(1864年)老中格兼陸海軍総奉行を経て同年老中に抜擢された。慶応元年(1865年)、兵庫開港を独断で決定して朝廷の勅勘を受け失脚。翌慶応2年(1866年)4月25日、松前で熱病により38歳で死去した。箱館戦争(1868年)を見ることなく世を去ったが、その2年後、自ら築いた松前城は旧幕府軍・土方歳三の軍勢に攻略されることになる。