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PERSON
三島由紀夫
三島由紀夫
昭和の鬼才、市ヶ谷で散る
1925-1970 · 享年 45歳
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生涯
1925年、東京市四谷区永住町(現・新宿区四谷)に農林省官僚・平岡梓の長男として生まれた。本名・平岡公威。学習院初等科・中等科・高等科を全て首席で卒業、1944年に天皇から銀時計を授与された。1947年東京帝国大学法学部卒、大蔵省入省するも9ヶ月で退職、文筆に専念。1949年『仮面の告白』で衝撃の文壇デビュー、自伝的に「同性愛的傾向」と「死への憧憬」を告白。1954年『潮騒』で新人文学賞、1956年『金閣寺』で読売文学賞を受賞、戦後派最大の作家としての地位を確立。『近代能楽集』『鏡子の家』『憂国』など旺盛に発表。1960年代からボディビル・剣道・空手で肉体を鍛え、政治的発言を強めた。1968年、民兵組織「楯の会」を結成。1965-1970年、四部作『豊饒の海』(『春の雪』『奔馬』『暁の寺』『天人五衰』)を執筆、これが遺作となる。1970年11月25日、第四巻『天人五衰』の最終原稿を編集者に渡した後、楯の会会員4名と共に陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地に乗り込み、東部方面総監を人質にバルコニーから自衛隊員に決起を呼びかける演説、その後総監室で割腹自決。介錯は森田必勝。享年45。日本・世界に衝撃を与えた「三島事件」となった。
人物像
抜群の知性と古典美への傾倒、肉体改造への執念、そして「死の美」への憧憬を併せ持つ複雑な人格。三島は華麗な文体と緻密な構成で日本語文学を芸術的高みに押し上げた。一方、戦後民主主義への深い違和感を抱き、天皇制と武士道を理想化、最後は自らの美学を体現する形で割腹自決を選んだ。芸術と政治、東洋と西洋、男性性と女性性、生と死を全身で生きた稀有な存在。
歴史的意義
昭和文学最大の鬼才。『金閣寺』『潮騒』『仮面の告白』『豊饒の海』四部作は世界20カ国以上で翻訳され、ノーベル文学賞候補にも度々挙がった。三島事件は戦後日本社会に大きな衝撃を与え、日本人と「天皇」「武士道」「敗戦」の関係を問い直す契機となった。山中湖畔の三島由紀夫文学館が生涯と作品を伝える。三島思想は今も新右翼・保守論壇に深い影響を残す。墓は東京府中市の多磨霊園。
逸話・エピソード
1956年——『金閣寺』
1956年、三島は1950年に実際に起こった金閣寺放火事件(学僧林養賢による国宝放火)を題材に長編『金閣寺』を発表。「美が憎い」と燃え上がる青年僧・溝口の独白で展開する物語は、絶対美への憧憬と破壊衝動の弁証法を絢爛たる文体で描き、戦後日本文学の最高峰の一つとされる。読売文学賞受賞。エドワード・サイデンステッカーの英訳で世界に紹介され、三島は国際作家としての地歩を確立した。
1970年11月25日——市ヶ谷事件
1970年11月25日朝、三島は『豊饒の海』第四巻『天人五衰』の最終原稿を新潮社編集者・小島千加子に手渡した後、楯の会会員4名(森田必勝・小川正洋・小賀正義・古賀浩靖)と共に陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地に向かった。総監室で東部方面総監・益田兼利陸将を人質に取り、自衛隊員約1,000名をバルコニー前に集めさせ、「諸君は武士だろう」と憲法改正と決起を訴える演説を行った。だが嘲笑とヤジに迎えられ、「天皇陛下万歳」を三唱した後総監室に戻り、午後12時15分頃割腹自決。森田必勝が介錯したが二度失敗、古賀が引き継ぎ首を落とした。森田も後を追い自決。享年45。日本中が震撼した戦後最大の事件であった。
名言
辞世
「言葉は死んでいる。言葉を生かすものは行動だ」
ゆかりの地 — 1
多磨霊園(新渡戸稲造墓所)
東京都
三島由紀夫(1925〜1970年)はこの多磨霊園に眠る。昭和45年(1970年)11月25日、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で決起演説後に割腹自決した三島の墓は多磨霊園にあり、今も多くのファンや研究者が訪れる。「仮面の告白」「金閣寺」「豊饒の海」四部作などの傑作を生んだ戦後日本最大の文学者の一人が眠る場所として、日本近代文学の聖地となっている。
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