1168年生まれ、三浦義澄の嫡男として三浦半島の雄族を継いだ。北条義時とは同世代で若い頃から盟友関係にあった一方、常に権力の中枢に接近し自氏の利益を最大化する老獪な策士でもあった。1213年の和田合戦では、長年の同僚であった和田義盛の挙兵計画を事前に察知しながら北条方に寝返り、義盛を壊滅に追い込んだ。1219年の実朝暗殺では、実行犯・公暁を匿おうとしたとも利用しようとしたとも言われ、義村の関与や黒幕説は今も論争が続く。承久の乱(1221年)では幕府方として従軍し、上洛軍に参陣して戦後の恩賞を確保した。これら一連の政治的勝利によって三浦氏の所領と勢力は幕府屈指の規模に達した。しかしその権勢は次代・泰村の代に北条得宗家との確執を生み、宝治合戦(1247年)で三浦氏は滅亡することとなる。1239年に72歳で没。