character/[id]

PERSON
宮沢賢治
宮沢賢治
岩手が生んだ銀河の詩人——『銀河鉄道の夜』『雨ニモマケズ』の作者
1896-1933 · 享年 37歳
+ 推しに追加
家系図を見る
生涯
1896年8月27日、岩手県稗貫郡里川口村(現・花巻市豊沢町)の質屋・古着商「宮澤商店」を営む宮沢政次郎の長男として生まれた。同年の三陸地震・明治三陸大津波(6月15日)の発生から2ヶ月後の誕生、その5日後にも陸羽地震が発生するなど、生涯を通じて東北の自然災害と向き合うこととなる。花巻川口尋常高等小学校、盛岡中学校を経て1915年盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)に首席入学、1918年主席で卒業し研究生として2年間在籍。法華経の熱心な信徒であり、1920年家出して上京、国柱会(田中智学主宰の日蓮主義団体)の門下となったが、父の病気により1921年花巻に戻る。1921年12月花巻農学校教諭に就任(1926年まで)、生徒に愛される伝説的な教師となった。この時期『注文の多い料理店』(1924年、童話集・自費出版)、『春と修羅』(1924年、詩集・自費出版)を刊行するも、生前はほぼ無名であった。1926年教職を辞し、家の農場「羅須地人協会」を設立、貧しい農民に無償で農業技術・肥料設計・芸術(音楽・文学)を教える理想主義的運動を始めた。しかし無理な活動で1928年結核を発病。闘病しながら『銀河鉄道の夜』『風の又三郎』『セロ弾きのゴーシュ』『グスコーブドリの伝記』等の童話、『春と修羅 第二集・第三集』の詩を執筆するも、多くは未完・未発表。1933年9月21日午後1時半、花巻の実家で急性肺炎のため37歳で没。死の直前、父に『雨ニモマケズ』の手帳を示したという逸話がある。
人物像
深い宗教心(法華経信仰)と科学的精神、農民への献身的愛、芸術的感性——すべてが融合した稀有な人格。「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(『農民芸術概論綱要』)という思想は、彼の生涯を貫く信念であった。エスペラント語を独学で習得、チェロ・オルガンも演奏、英語・ドイツ語・仏語・ラテン語も学ぶ語学の天才。一方、病弱で繊細、死への予感と常に向き合う暗さも併せ持つ。恋愛経験が乏しく生涯独身、妹トシとの精神的絆が深く、その死(1922年)は『永訣の朝』等の詩の源泉となった。
歴史的意義
生前はほぼ無名だった宮沢賢治は、没後になって文学史上に突然現れ、現在では国民的作家として愛されている。1934年草野心平らによる遺稿整理・出版が始まり、『銀河鉄道の夜』『風の又三郎』『グスコーブドリの伝記』は日本児童文学の古典となった。『雨ニモマケズ』は1934年の発見以降、国民詩として広く暗誦され、東日本大震災(2011年)の復興のシンボルとしても引用された。岩手県花巻市は「イーハトーブ」(賢治が提唱した理想郷の名)を冠した地域ブランディングを展開、宮沢賢治記念館・童話村・イーハトーブ館等の施設が立ち並ぶ。銀河鉄道の夜は映画化(1985年アニメ版)、ミュージカル化、ジブリ的世界観への影響(『千と千尋の神隠し』への示唆等)と、現代ポップカルチャーにも大きな影響を与えている。国連UNESCOは賢治の自然観・平和思想を高く評価、1996年生誕100年には国際的な記念行事が開催された。岩手大学農学部には宮沢賢治の直筆原稿等の資料室がある。
逸話・エピソード
『雨ニモマケズ』手帳の発見——1934年
1934年2月、賢治の死後5ヶ月、弟・清六が東京で賢治の遺品整理を行っていた際、黒革の小さな手帳(縦15cm×横9cm)から鉛筆書きの詩が発見された。1931年11月3日(賢治35歳、結核療養中)に書かれたもので、「雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ 丈夫ナカラダヲモチ……」で始まるカタカナの詩。「ソウイフモノニワタシハナリタイ」で終わる、理想の人間像を記した120行ほどの詩である。生前は未発表、本人は作品と認識していなかった可能性もあるが、没後発表されるや国民的詩となり、戦中は軍国主義に、戦後は平和主義に、各時代の読み方で愛された。1936年11月、花巻市に詩碑が建立、現在も賢治の代表作として教科書・朗読・東日本大震災復興等、あらゆる場で引用される。手帳の実物は花巻市の宮沢賢治記念館に保存されている。
羅須地人協会の挑戦——1926-1928年
1926年3月、30歳の賢治は花巻農学校を退職、家の別宅(下根子桜)で「羅須地人協会」を開設。「農民芸術概論綱要」を講義の基本とし、貧しい農民に無償で農業技術・肥料設計・音楽(レコード鑑賞・楽器演奏)・文学(詩・童話の創作)を教えた。賢治自身も田畑を耕し、粗末な食事で生活した(玄米・味噌・野菜中心で肉魚・酒はほぼ摂取せず)。しかし1926年の当地は冷害・凶作で、農民に「理想」だけでは食べられない現実を突きつけた。1928年8月、過労により急性肺炎・両側性肺浸潤と診断され、協会活動は2年半で中断、事実上の閉鎖となる。以後は結核療養生活で、1931年東京で再発、1933年死去へと至る。羅須地人協会は2年半の短期間だったが、地域に根ざした理想主義的農民運動の先駆として高く評価されている。跡地は現在「羅須地人協会跡」として保存、毎年多くの賢治ファンが訪れる。
─ 完 ─
📱
アプリで巡礼を楽しむ
App Store からダウンロード
T · O · K · U