1934年2月、賢治の死後5ヶ月、弟・清六が東京で賢治の遺品整理を行っていた際、黒革の小さな手帳(縦15cm×横9cm)から鉛筆書きの詩が発見された。1931年11月3日(賢治35歳、結核療養中)に書かれたもので、「雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ 丈夫ナカラダヲモチ……」で始まるカタカナの詩。「ソウイフモノニワタシハナリタイ」で終わる、理想の人間像を記した120行ほどの詩である。生前は未発表、本人は作品と認識していなかった可能性もあるが、没後発表されるや国民的詩となり、戦中は軍国主義に、戦後は平和主義に、各時代の読み方で愛された。1936年11月、花巻市に詩碑が建立、現在も賢治の代表作として教科書・朗読・東日本大震災復興等、あらゆる場で引用される。手帳の実物は花巻市の宮沢賢治記念館に保存されている。
1926年3月、30歳の賢治は花巻農学校を退職、家の別宅(下根子桜)で「羅須地人協会」を開設。「農民芸術概論綱要」を講義の基本とし、貧しい農民に無償で農業技術・肥料設計・音楽(レコード鑑賞・楽器演奏)・文学(詩・童話の創作)を教えた。賢治自身も田畑を耕し、粗末な食事で生活した(玄米・味噌・野菜中心で肉魚・酒はほぼ摂取せず)。しかし1926年の当地は冷害・凶作で、農民に「理想」だけでは食べられない現実を突きつけた。1928年8月、過労により急性肺炎・両側性肺浸潤と診断され、協会活動は2年半で中断、事実上の閉鎖となる。以後は結核療養生活で、1931年東京で再発、1933年死去へと至る。羅須地人協会は2年半の短期間だったが、地域に根ざした理想主義的農民運動の先駆として高く評価されている。跡地は現在「羅須地人協会跡」として保存、毎年多くの賢治ファンが訪れる。