天文20年(1551年)、三好長慶の甥・十河一存の子として生まれる。永禄4年(1561年)に父が急死すると伯父・長慶に養育され、永禄6年(1563年)に従兄・三好義興の早逝を受けて長慶の養子となり三好姓を継いだ。永禄7年(1564年)、長慶の死により若くして三好家当主となる。永禄8年(1565年)5月、将軍・足利義輝から偏諱を受けて「義重」と改名するが、その19日後には三好三人衆・松永久通らと共に二条御所を襲撃し義輝を殺害する永禄の変に加担、その後「義継」と改名した。三人衆が将軍候補として足利義栄を擁立し義継を軽んじるようになると、永禄10年(1567年)には松永久秀と結んで対抗。永禄11年(1568年)、織田信長の上洛に協力し、河内北半国と若江城の領有を安堵された。元亀2年(1571年)頃からは信長に反旗を翻して信長包囲網に加わり、天正元年(1573年)7月に京都を追われた将軍・足利義昭を若江城に迎え入れて庇護。これに激怒した信長は佐久間信盛率いる大軍を若江城に差し向け、同年11月、重臣「若江三人衆」の裏切りもあって城は落城した。義継は妻子を刺殺した後、自ら腹を十文字に割いて自害。かつて畿内・四国8カ国を支配した三好宗家は、義継の死をもって滅亡した。