三好義継
三好義継
三好宗家最後の当主
1551-1573 · 享年 22歳
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古橋城を訪れると出会えます
ゆかりの地 2か所
三好義継を訪ねる
2 ヶ所
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生涯
天文20年(1551年)、三好長慶の甥・十河一存の子として生まれる。永禄4年(1561年)に父が急死すると伯父・長慶に養育され、永禄6年(1563年)に従兄・三好義興の早逝を受けて長慶の養子となり三好姓を継いだ。永禄7年(1564年)、長慶の死により若くして三好家当主となる。永禄8年(1565年)5月、将軍・足利義輝から偏諱を受けて「義重」と改名するが、その19日後には三好三人衆・松永久通らと共に二条御所を襲撃し義輝を殺害する永禄の変に加担、その後「義継」と改名した。三人衆が将軍候補として足利義栄を擁立し義継を軽んじるようになると、永禄10年(1567年)には松永久秀と結んで対抗。永禄11年(1568年)、織田信長の上洛に協力し、河内北半国と若江城の領有を安堵された。元亀2年(1571年)頃からは信長に反旗を翻して信長包囲網に加わり、天正元年(1573年)7月に京都を追われた将軍・足利義昭を若江城に迎え入れて庇護。これに激怒した信長は佐久間信盛率いる大軍を若江城に差し向け、同年11月、重臣「若江三人衆」の裏切りもあって城は落城した。義継は妻子を刺殺した後、自ら腹を十文字に割いて自害。かつて畿内・四国8カ国を支配した三好宗家は、義継の死をもって滅亡した。
人物像
歴史家の評価は分かれる。今谷明は伯父・長慶とは「似ても似つかぬ劣った器量」と手厳しく評する一方、天野忠幸は足利将軍家の権威を「克服」しようとした改革者と見ている。最期の壮絶な自害については、『信長公記』の著者・太田牛一も「比類なき御働き、哀れなる有様なり」と記し、須藤茂樹も「見事な最期であった」と評価している。
歴史的意義
義継の死は、三好長慶が一代で築いた畿内・四国8カ国にまたがる三好政権の最終的な滅亡を意味した。彼が最期を迎えた若江城(大阪府東大阪市)は、その後若江三人衆に預けられ石山合戦の付城として使われたが、天正8年(1580年)の石山合戦終結とともに廃城となった。義継が守り抜こうとした古橋城(大阪府門真市)とともに、畿内における三好氏の興亡を今に伝える史跡となっている。
さらに深く
家系図
家系の記録は未登録です。
─ 完 ─
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