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以仁王
以仁王
源氏挙兵の発端
1151-1180 · 享年 29歳
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へぇ、と思う三話
其 一
一通の令旨が歴史を変えた——源平合戦の引き金
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治承4年(1180年)4月、以仁王は源頼政と共謀し、「平氏を討て」という令旨(皇族の命令書)を全国の源氏・武士に発した。これが源頼朝(伊豆)・源義仲(信濃)らを相次いで挙兵させ、治承・寿永の乱(源平合戦)の発端となった。以仁王自身は令旨を発した約1ヶ月後に戦死したが、その一通の文書が鎌倉幕府成立へと続く日本史の大転換を引き起こした。
其 二
宇治平等院の戦い——皇子が自ら矢を取り散った30年の生涯
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挙兵後、平氏の追討を受けた以仁王は南都(奈良)への逃避行中に宇治川を渡ろうとした。宇治平等院付近での戦闘で源頼政が自害し、以仁王は一人逃亡を続けたが、光明山寺付近で射かけられた流れ矢に当たり落馬して戦死した。30歳の短い生涯であったが、「皇族が武装蜂起して平氏と戦った」という事実そのものが、後の倒幕運動に正統性を与え続けた。
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深
さらに深く
生
生涯をくわしく
生い立ちから最期まで
後白河天皇の第三皇子。母は藤原成子。聡明で和歌に優れ、本来なら皇位継承の有力候補であったが、平清盛の政治介入により即位の機会を奪われた。治承4年(1180年)4月、平氏の専横に耐えかね、源頼政と共に平氏追討の令旨(りょうじ)を全国の源氏に発した。この令旨が源頼朝・源義仲らの挙兵を促し、治承・寿永の乱(源平合戦)の引き金となった。しかし以仁王自身は挙兵直後の5月26日、宇治平等院付近の戦いで平氏軍に追われ、南都(奈良)へ逃れる途中の光明山寺付近で流れ矢に当たり戦死。享年30。わずか1ヶ月余りの挙兵であったが、その令旨は日本史の流れを根本的に変えた。
人
人物像
高い知性と教養を持ちながら、平氏に皇位を阻まれた悲運の皇子。最後は自ら武器を取って戦場に立つ勇気を見せた。
義
歴史的意義
以仁王の令旨は日本中世史最大の転換点の一つ。この一通の令旨がなければ源平合戦は起こらず、鎌倉幕府も誕生しなかった。皇族でありながら武装蜂起した稀有な存在として歴史に名を刻む。
系
家系図
親
父
1127-1192
後白河天皇
治天の君。平氏と源氏の間で権謀術数を巡らせた。
本
本人
以仁王
1151-1180
記
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以
以仁王の令旨——一通の文書が源平合戦の引き金となった事件
治承4年(1180年)、皇族・以仁王が「平氏を討て」と命じた一通の令旨が、源頼朝・源義仲らを相次いで挙兵させ、源平合戦の幕を開けました。以仁王自身は宇治平等院の戦いで30歳の短い生涯を閉じましたが、その文書が日本史を大転換させました。平等院・三井寺ゆかりの地を訪ねながら、源平の激動を学びましょう。
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─ 完 ─
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