1139年、北面の武士・遠藤盛遠として生まれた。伝説によれば、恋した人妻・袈裟御前(渡辺渡の妻)を誤って殺害し(1167年頃)、その衝撃と悔恨から出家したとされる。文覚と号し、西国・東国を遍歴しながら那智の滝に打たれる百日滝行など苛烈な荒行を重ねた。やがて神護寺(京都)の再興を朝廷に強く訴えたが、強引な行動が咎められて伊豆に流罪となった(1173年頃)。流人時代に同じく伊豆に配流されていた源頼朝と深く交わり、頼朝に亡父・義朝の髑髏を見せて「父の無念を晴らせ」と挙兵を強く促したとされる。1180年に頼朝が挙兵すると関係が解消され、文覚は神護寺復興に専念した。後白河法皇・頼朝双方の支援を得て神護寺を大いに復興させた。しかし頼朝の死後は後鳥羽上皇とも対立し、1203年に再び流罪となって佐渡・対馬へ流された。1203年没。その破天荒な生涯は多くの文学・芸能の題材となっている。