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PERSON
森有礼
森有礼
初代文部大臣・近代教育制度の設計者
1847-1889 · 享年 42歳
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生涯
1847年、薩摩藩士・森有恕の五男として鹿児島に生まれた。藩の洋学校・開成所で英学を学び、1865年、藩命により五代友厚らとともに英国に密航留学。ロンドン大学で学びつつ、アメリカにも渡ってキリスト教コミューンに滞在した。維新後、新政府の外国官権判事を経て駐米少弁務使として渡米。1875年、東京に商法講習所(現・一橋大学)を設立。英語公用語化論を唱えるなど急進的欧化主義者として知られた。1885年、伊藤博文内閣で初代文部大臣に就任。小学校令・中学校令・帝国大学令・師範学校令を一括公布し、近代日本の学校制度を設計した。「教育は国家のため」と説く国家主義的教育観も特徴。1889年2月11日、大日本帝国憲法発布の当日、伊勢神宮での「不敬」を理由に国粋主義者・西野文太郎に短刀で刺され、翌日死去。享年42。
人物像
合理主義者にして実行家。旧習を厭わず改革を急ぎ、「日本語廃止・英語採用論」さえ唱えた過激な西洋派。一方で学制設計には綿密さを発揮し、規則・試験・教員養成を体系的に整備。自信家で敵も多かったが、明治教育の骨格は彼の構想から生まれた。
歴史的意義
森が設計した小学校〜帝国大学の体系的学校制度は、戦後の新制にいたるまで日本教育の基盤となった。商法講習所は東京商科大学を経て一橋大学となり、日本経済界に多くの人材を送り出した。一方、国家主義的教育観は教育勅語(1890年)への道を開き、功罪両面で近代日本教育を決定づけた人物として評価される。
逸話・エピソード
英語国語化論——「日本語を捨てよ」
1872年、駐米代理公使であった森は、エール大学言語学者ホイットニーら米国の学者に書簡を送り、「日本は漢字と日本語を捨てて英語を国語にすべきか」と意見を求めた。ホイットニーは「自国語を捨てるのは愚かである」と強く反対し、森も結局この構想は諦めた。しかし国家の近代化に言語を問題として据えた視点は先駆的であり、後の言文一致運動・標準語確立論議に連なった。
1889年2月11日——憲法発布の日に暗殺
1889年2月11日、大日本帝国憲法発布当日の朝、森は官邸で参内の準備をしていた。国粋主義者・西野文太郎は「森が伊勢神宮で土足のまま幕を杖で払った」という風説を憤り、陳情に見せかけて森に接近。懐から短刀を抜いて腹部を刺した。森は翌12日、42歳で死去。直後に西野は護衛官に斬殺された。真相は不明な点が多いが、欧化主義教育への反動、明治政府内のナショナリズム台頭を象徴する事件となった。
─ 完 ─
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