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PERSON
毛利勝永
毛利勝永
大坂の隠れた名将
1577-1615 · 享年 38歳
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生涯
1577年(天正5年)、毛利勝信の子として尾張国に生まれた。豊臣秀吉に仕え、父と共に九州の小倉6万石を領した。関ヶ原の戦いでは西軍に属して敗北し、所領を没収されて土佐の山内家に預けられた。1614年、大坂冬の陣に際して妻子を人質に残して土佐を脱出し、大坂城に入城。大坂五人衆の一人に数えられた。1615年(元和元年)5月7日、天王寺口の決戦では4,000の兵を率いて徳川方の本多忠朝・小笠原秀政らを次々に撃破し、家康の本陣にまで迫る猛攻を見せた。この突破により真田幸村の家康本陣突撃が可能になったとされる。大坂城陥落後、主君・秀頼の介錯を務め、自らも自害した。享年39。
人物像
沈着冷静で統率力に優れた将器の持ち主。華やかさでは真田幸村に劣るが、実戦での戦果は幸村以上とも評される。義理堅く、最後まで豊臣家への忠節を貫いた。
歴史的意義
「惜しいかな後世、真田を云いて毛利を云わず」と評されるように、真田幸村の陰に隠れがちだが、天王寺口の戦いでの戦果は大坂夏の陣最大の武功とされる。当時の宣教師の記録にもその奮戦は記されている。
逸話・エピソード
天王寺口の猛攻——幸村の突撃を演出した男
1615年5月7日、天王寺口の最終決戦で勝永は4,000の兵を率いて先陣を切った。まず本多忠朝隊を正面から撃破して忠朝を討ち取り、続いて小笠原秀政・忠脩父子の軍も壊滅させた。さらに浅野長重隊をも蹴散らし、徳川方の陣列を次々と突き崩して家康の本陣に迫った。この勝永の猛攻により徳川軍の隊列が混乱し、真田幸村が家康本陣に三度突撃する道を開いたとされる。家康が自害を覚悟したのは、幸村の突撃だけでなく勝永の破壊的な突破があったればこそであった。
─ 完 ─
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