1497年、安芸国吉田郡山城主・毛利弘元の次男として生まれた。幼少期に父・弘元と母を相次いで失い、孤独な少年時代を送った。兄・興元も早死にしたため、15歳頃に家督を継いだ。当初は安芸の弱小国人領主にすぎなかったが、緻密な謀略と軍略を駆使して周辺勢力を次々に攻略。1540年の吉田郡山城の戦いでは尼子晴久の大軍を撃退し、一躍名を挙げた。1554年には守護大名・大内氏の重臣として台頭した陶晴賢を厳島の戦いで海軍を活用した奇策で撃破。この勝利で中国地方の覇権を確立した。1566年に宿敵・尼子氏を滅ぼして中国地方十カ国を支配する大大名となった。「三本の矢」の故事は、臨終に際して三人の息子(隆元・元春・隆景)に一本ずつの矢は折れるが三本束ねれば折れないと示した教訓として伝わり、毛利家の結束を象徴する逸話となった。1571年に75歳で没した。毛利元就の「三本の矢」の教訓は日本で最も有名な家訓の一つとなり、今も企業・学校のチームワーク教育で広く引用されている。