文化13年(1816年)、三河国奥殿藩5代藩主・松平乗尹の子として生まれ、後に旗本永井家の養子となった。嘉永6年(1853年)に目付、安政元年(1854年)には長崎海軍伝習所の総監理(所長)を務め、勝海舟ら幕臣に西洋式海軍教育を授けた。安政5年(1858年)には外国奉行としてロシア・イギリス・フランスとの通商条約交渉にあたり、翌年には軍艦奉行に就任した。文久2年(1862年)京都町奉行として復帰し、元治元年(1864年)大目付、慶応3年(1867年)には若年寄にまで昇進した。慶応4年(1868年)2月、鳥羽・伏見の戦い後の処分で逼塞となるが、同年12月、蝦夷地に渡って蝦夷共和国(箱館政権)の箱館奉行に就任した。新政府軍の総攻撃(己巳の役)を控えた明治2年(1869年)4月7日の配備で弁天台場の将となり、伝習士官隊・箱館新選組・砲兵ら約300名を指揮。市中を新政府軍に占拠されて五稜郭との連絡も絶たれ孤立するも抗戦を続けたが、同年5月15日、抵抗を停止して降伏した。降伏後は禁錮刑に処されたが、明治5年(1872年)に赦免されて明治政府に出仕し、開拓使や左院で要職を務めた。明治24年(1891年)、76歳で没した。