1983年1月、中曽根は首相就任後の最初の外遊先として米国を選び、レーガン大統領と会談。両者は日米同盟を「運命共同体」と表現、互いをファーストネームで呼び合う「ロン・ヤス」関係を演出した。同年11月、レーガン来日時には日の出山荘(東京・日の出町)に招き、和服で歓待。茶室での親密な会談は世界に報じられ、戦後最も親密な日米首脳関係として記憶された。中曽根はレーガンの「強いアメリカ」路線に呼応し、日本も「強い日本」を目指すと宣言、防衛費GNP1%枠突破(1987年)を実現。一方で1983年「日本列島を不沈空母とする」発言(ワシントン・ポスト紙インタビュー)は、近隣諸国から批判を浴びた。「ロン・ヤス」関係は現在の日米同盟の原型となっている。
中曽根は1982年首相就任直後から国鉄改革に着手。土光敏夫を会長とする第二次臨時行政調査会(土光臨調)の答申に基づき、累積債務37兆円、年間赤字1.4兆円の国鉄を抜本改革する方針を決定。労働組合(国労・動労)の激しい抵抗を押し切り、1986年11月国鉄改革関連法を成立させた。1987年4月1日、115年の歴史を持つ日本国有鉄道はJR北海道・JR東日本・JR東海・JR西日本・JR四国・JR九州・JR貨物の7社に分割民営化された。中曽根は後年「国鉄分割民営化は私の最大の業績」と語った。同時にこの改革は左派労働運動の最後の砦であった国鉄労組を弱体化させ、自民党の長期政権基盤を強化する政治的効果も持った。電電公社・専売公社の民営化と合わせ、戦後日本最大の構造改革となった。