生年は1169年頃とされる下野国那須(現・栃木県那須郡)の武士。那須資隆の11人の息子の末子とも伝わり、幼名は与一宗高。弓の稽古に励み、若くして名手の誉れを得た。1185年、源義経の軍に従って讃岐国・屋島の戦いに参陣した。戦闘が小康状態となった際、平家の小舟が漕ぎ出してきて竿の先に扇を掲げ、「これを射てみよ」と源氏軍に挑発した。義経が「誰か射よ」と求めると、多くの武士が辞退する中で与一だけが「お受けいたしましょう」と名乗り出た。強風と荒波に揺れる沖合の小舟の上の扇は、陸からの距離も相当あった。与一は馬を海に乗り入れ、弓を絞って一矢を放つと、扇の要際(中心部)を射抜き、扇は空高く舞い上がってから波間に落ちた。源平両軍の兵士は「あっぱれ」と喝采した。喜んで舞い始めた平家の老武者を続けて射たことから義経に咎められたという逸話もある。この「扇の的」は『平家物語』の白眉として小学校の教科書にも掲載されている。