1829年、石見国津和野藩(現・島根県津和野町)の漢方医・西時義の長男として生まれた。幼名・経太郎。神童と称され、4歳で『孝経』、6歳で四書五経を読んだ。藩校養老館で朱子学を修めるも、のち洋学に転じ1853年江戸に出た。蕃書調所(幕府の洋学研究機関)の教授助手となり、1862年、幕府の命で津田真道らと共にオランダ・ライデン大学に留学(1863-1865年)。フィッセリング教授の下で哲学・法律・経済・統計を学んだ。帰国後、幕末は幕臣として、維新後は明治政府の兵部省・文部省・宮内省で要職を歴任、陸軍の近代化にも貢献。1874年、森有礼らと「明六社」を結成し『明六雑誌』に啓蒙論文を寄稿。特筆すべきは西洋の抽象概念を漢字熟語に翻訳し、日本近代語彙の基礎を築いたこと。「哲学」「科学」「芸術」「理性」「意識」「観念」「主観」「客観」「定義」「命題」「演繹」「帰納」「心理学」等、現代日本語に不可欠な訳語の多くを彼が創出した。1897年、東京で68歳で没。