1301年頃、上野国新田荘(現・群馬県太田市)を本拠とする源氏の名門・新田氏の棟梁として生まれた。1333年5月、後醍醐天皇の命を奉じて上野国生品明神で挙兵すると、義貞の旗下にはたちまち関東の武士が続々と集まり大軍となった。鎌倉への進軍では、化粧坂・極楽寺坂・巨福呂坂の三方向から攻撃したが正面突破は困難であった。稲村ヶ崎では潮が引かず沿岸を通れなかったが、義貞が黄金の太刀を海に投じて龍神に祈ると潮が引いたという伝説が残る。この稲村ヶ崎の突破により鎌倉に侵入した義貞軍は北条高時らを東勝寺での自害に追い込み、鎌倉幕府を滅亡させた。建武の新政では尊氏と並ぶ最大の功臣として遇されたが、互いの勢力拡大をめぐって対立が深まり、尊氏の離反後は南朝方の主力武将として戦い続けた。1338年、越前国藤島(現・福井市)での戦闘中に流れ矢を受けて戦死した。享年37〜38歳。