天文13年(1544年)生まれ。延沢城初代城主・延沢薩摩守満重の子で、延沢城2代目城主となった。領内に延沢銀山を有し、その経営で勢力を蓄えた。天童氏を盟主とする「最上八楯」の一員として、山形城主・最上義光と長年にわたり抗争し、しばしば義光を苦しめた。しかし天正12年(1584年)、義光が自らの娘・松尾姫を満延の子・又五郎に嫁がせて懐柔を図ると、満延は降伏に転じた。この際、満延は降伏の条件として盟主・天童頼澄の助命を義光に願い出たと伝わる。満延の離反により最上八楯は瓦解し天童城が落城、義光の村山郡統一が大きく進んだ。同年、義光が谷地城主・白鳥長久を滅ぼすと、その旧領の一部が満延に与えられた。天正18年(1590年)11月、義光に従い上洛し、翌天正19年(1591年)3月14日、京都で病没した。