天文12年(1543年、一説に天文17年〔1548年〕)、織田信長の弟として生まれた。永禄11年(1568年)2月、信長の命により北伊勢の有力国人・長野氏(工藤氏)の養子となり、長野城主として家督を継いだ。翌永禄12年(1569年)10月、北畠家が信長に臣従すると、信包は伊勢安濃津(現・津市)の城主に任命され、本拠を上野城へ移した。天正9年(1581年)の京都御馬揃えでは、嫡男・信忠に次ぐ実質的な序列3番目として10騎を率いており、『信長公記』でも常に信雄・信孝の間に名が挙がるなど、織田一門内で高い地位にあったことがうかがえる。天正10年(1582年)の本能寺の変後は羽柴秀吉に従い、「津侍従」と称され伊勢津で15万石を領した。天正18年(1590年)の小田原征伐に際して北条氏の助命を秀吉に嘆願したことで怒りを買い、文禄3年(1594年)9月に改易された。その後は許され、慶長3年(1598年)に丹波柏原3万6千石を与えられた。慶長19年(1614年)7月17日、大坂城内で吐血して没した。享年72。