織田信包
織田信包
信長の弟・長野氏養嗣子から伊勢安濃津城主へ
1543-1614 · 享年 71歳
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長野城(伊勢国)を訪れると出会えます
ゆかりの地 1か所
へぇ、と思う三話
長野氏養子から伊勢安濃津城主へ
永禄11年(1568年)、信長は弟・信包を北伊勢の有力国人・長野氏(工藤氏)の養子として送り込み、長野城主として家督を継がせた。翌年10月に北畠家が信長に臣従すると、信包は伊勢安濃津の城主に任命され、本拠を上野城へ移した。これにより長野城は廃城となり、中世国衆・長野氏の時代は終わりを告げた。
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生い立ちから最期まで
天文12年(1543年、一説に天文17年〔1548年〕)、織田信長の弟として生まれた。永禄11年(1568年)2月、信長の命により北伊勢の有力国人・長野氏(工藤氏)の養子となり、長野城主として家督を継いだ。翌永禄12年(1569年)10月、北畠家が信長に臣従すると、信包は伊勢安濃津(現・津市)の城主に任命され、本拠を上野城へ移した。天正9年(1581年)の京都御馬揃えでは、嫡男・信忠に次ぐ実質的な序列3番目として10騎を率いており、『信長公記』でも常に信雄・信孝の間に名が挙がるなど、織田一門内で高い地位にあったことがうかがえる。天正10年(1582年)の本能寺の変後は羽柴秀吉に従い、「津侍従」と称され伊勢津で15万石を領した。天正18年(1590年)の小田原征伐に際して北条氏の助命を秀吉に嘆願したことで怒りを買い、文禄3年(1594年)9月に改易された。その後は許され、慶長3年(1598年)に丹波柏原3万6千石を与えられた。慶長19年(1614年)7月17日、大坂城内で吐血して没した。享年72。
人物像
織田一門の中でも兄・信長から高い信頼を寄せられ、京都御馬揃えでの序列に見られるように一門内で重んじられた人物。豊臣政権下でも「津侍従」として一定の地位を保ったが、小田原征伐で敵将・北条氏の助命を嘆願するなど、時に情に厚い一面も見せ、それが秀吉の怒りを買い改易につながった。改易後も没落せず柏原藩主として家名を保った点に、したたかな処世術がうかがえる。
歴史的意義
信包が城主を務めた長野城・上野城(安濃津城)は、いずれも織田氏による北伊勢平定の過程を物語る史跡として今日に伝わる。特に長野城は永禄末年に本拠が上野城へ移されたことで廃城となり、中世国衆・長野氏の支配から近世大名支配への転換点を示す城跡として歴史的価値を持つ。丹波柏原藩は信包の子孫のもとで存続し、家名は近世を通じて保たれた。
家系図
1510?-1551
織田信秀
尾張の戦国大名。信長の父。
本人
織田信包
1543-1614
兄弟
1534-1582
織田信長
天下布武を掲げた戦国の革命児。
─ 完 ─
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