織田信孝(神戸信孝)
織田信孝(神戸信孝)
信長の三男・神戸氏養嗣子
1558-1583 · 享年 25歳
ま だ 出 会 っ て い ま せ ん
神戸城を訪れると出会えます
ゆかりの地 1か所
へぇ、と思う三話
「押入聟」による神戸家乗っ取りと神戸城の大改修
永禄11年(1568年)、信長は北伊勢平定に際し、三男・信孝を神戸具盛の養嗣子として送り込み、事実上神戸家を乗っ取った。信孝は天正8年(1580年)までに神戸城を五層の天守と多数の櫓を備えた近世城郭へと大改修し、伊勢参宮街道の宿場町として神戸を発展させた。この石垣・天守台は現在も残り、続日本100名城に選ばれている。
秀吉との対立と非業の最期
本能寺の変後、信孝は清須会議で美濃・岐阜城を得たが、秀吉の権力拡大に反発し柴田勝家と結んだ。天正11年(1583年)、勝家が賤ヶ岳の戦いで敗死すると、秀吉軍に岐阜城を包囲され降伏。尾張野間の安養院で自害を強いられた。享年26。「昔より主を内海の野間なれば報いを待てや羽柴筑前」の辞世は、秀吉への恨みを今に伝える。
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神戸城
三重県
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生い立ちから最期まで
永禄元年(1558年)、織田信長の三男として生まれた。永禄11年(1568年)2月、信長が伊勢国北部を平定すると、北勢の有力国人・神戸具盛の養嗣子として送り込まれ、具盛の娘・鈴与姫を娶った。これは信長がしばしば用いた「押入聟」による支配政策の一環であった。天正8年(1580年)、伊勢での領地支配を確立した信孝は神戸城を大改修し、五層の天守と多数の櫓を備えた近世城郭に整えた。天正10年(1582年)6月の本能寺の変の際、信孝は四国遠征の準備のため堺に在陣していた。混乱の中、信頼できない縁者・津田信澄を殺害して信を得ると、羽柴秀吉の山崎の戦いを支援した。清須会議には参加資格を得られなかったが、美濃国と岐阜城を与えられた。しかし秀吉の権力拡大に反発し柴田勝家に接近、天正11年(1583年)4月に挙兵したものの、賤ヶ岳の戦いで勝家が敗死すると岐阜城を秀吉軍に包囲され開城。尾張野間の安養院に送られ、自害を強要された。享年26。辞世の句「昔より主を内海の野間なれば報いを待てや羽柴筑前」は秀吉への深い怨念を伝える。
人物像
信長の子の中でも武将としての気概に富み、神戸城の大改修に見られるように領国経営にも意欲的であった。しかし本能寺の変後の政局では、清須会議で兄・信雄に出し抜かれるなど政治的立ち回りに難があり、最終的に秀吉との対立で命を落とした。辞世の句に見える秀吉への強い怨念は、その激しい気性を物語る。
歴史的意義
信孝が大改修した神戸城の天守台・石垣は現在も三重県鈴鹿市に残り、国の史跡・続日本100名城に選定されている。伊勢参宮街道の宿場町としての神戸の繁栄も信孝の統治に端を発する。秀吉との抗争に敗れて非業の死を遂げた悲劇の武将として、賤ヶ岳の戦いを語る上で欠かせない人物である。
家系図
1534-1582
織田信長
天下布武を掲げた戦国の革命児。
養父
不詳
神戸具盛
北勢の有力国人・神戸氏の当主。
本人
織田信孝(神戸信孝)
1558-1583
─ 完 ─
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