永禄元年(1558年)、織田信長の三男として生まれた。永禄11年(1568年)2月、信長が伊勢国北部を平定すると、北勢の有力国人・神戸具盛の養嗣子として送り込まれ、具盛の娘・鈴与姫を娶った。これは信長がしばしば用いた「押入聟」による支配政策の一環であった。天正8年(1580年)、伊勢での領地支配を確立した信孝は神戸城を大改修し、五層の天守と多数の櫓を備えた近世城郭に整えた。天正10年(1582年)6月の本能寺の変の際、信孝は四国遠征の準備のため堺に在陣していた。混乱の中、信頼できない縁者・津田信澄を殺害して信を得ると、羽柴秀吉の山崎の戦いを支援した。清須会議には参加資格を得られなかったが、美濃国と岐阜城を与えられた。しかし秀吉の権力拡大に反発し柴田勝家に接近、天正11年(1583年)4月に挙兵したものの、賤ヶ岳の戦いで勝家が敗死すると岐阜城を秀吉軍に包囲され開城。尾張野間の安養院に送られ、自害を強要された。享年26。辞世の句「昔より主を内海の野間なれば報いを待てや羽柴筑前」は秀吉への深い怨念を伝える。