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PERSON
緒方洪庵
緒方洪庵
蘭医・適塾の創設者
1810-1863 · 享年 53歳
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生涯
備中国(現・岡山県浅口市)に生まれ、大坂・江戸で蘭学・医学を修めた後、長崎でシーボルトの元を訪れて西洋医学を深く学んだ。1838年に大坂・船場に「適適塾(のちの適塾)」を開塾し、全国から学生を集めた。適塾からは福沢諭吉・大村益次郎・橋本左内・大鳥圭介・長与専斎など幕末〜明治に活躍した多くの人材が輩出された。医師としても種痘(天然痘ワクチン)の普及に尽力し、日本の天然痘撲滅に大きく貢献した。また『扶氏経験遺訓』(フーフェランドの著書の翻訳)など多くの医学書を著訳し、日本の近代医学の基礎を築いた。教育者・医師・学者として三位一体の活動を行い、幕末の日本に西洋近代科学の礎を植え付けた。1862年に幕府奥医師(将軍の侍医)に任じられ、江戸に赴任するが、翌1863年8月25日に53歳で病没した。大坂(現・大阪市中央区北浜)の適塾跡は現在、重要文化財として一般公開されている。
人物像
謙虚で学問への純粋な情熱を持つ教育者・医師。身分や出身を問わず優秀な人材を育てた開明的な姿勢は、近代日本の人材育成モデルとなった。患者のために尽くす医師の倫理観も高く評価されている。
歴史的意義
適塾を通じて幕末〜明治の人材育成に多大な貢献をした。種痘の普及で多くの命を救い、日本の近代医学の基礎を築いた。「適塾」は今も近代日本の知の源泉として語り継がれている。
逸話・エピソード
適塾の門下生——緒方洪庵が育てた明治維新の人材たち
緒方洪庵は1838年に大坂に適塾(適々斎塾)を開いた。ここから育った門下生には福澤諭吉・大村益次郎・橋本左内・福井藩の松本良順(西洋医学所頭取)ら多くの著名人が含まれる。洪庵自身は種痘(天然痘予防接種)の普及に尽力し、多くの命を救った。1858年のコレラ大流行では治療の指針「虎狼痢治準」を著して公開した。1862年に幕府の奥医師となり侍医となったが、翌1863年に過労で病死した。享年53歳。「人類の苦悩を除く」という医師の使命を生涯貫いた人物として今も高く評価される。
関連する歴史的事件
1838
適塾開設
天保9年(1838年)、緒方洪庵(1810-1863)が大坂船場瓦町(現・大阪市中央区)に開いた蘭学塾。備中足守藩士の子で長崎・江戸で蘭学・医学を修めた洪庵は、29歳で大坂に適塾(適々斎塾)を開き、階級を問わず入門を認めた。ツェーゲンバルクの『扶氏経験遺訓』など蘭書を教材に、独自の「会読」(少人数討論)方式で原書を読ませ、能力主義の進級制度を採った。塾生は総数636名(現存記録)、福沢諭吉・大村益次郎・橋本左内・佐野常民・長与専斎・大鳥圭介ら幕末・明治を担う人材を輩出。緒方自身は『扶氏経験遺訓』の翻訳、天然痘予防のため牛痘種痘の普及、大坂除痘館設立など医学の発展にも尽力した。現存する塾舎は国重要文化財。
ゆかりの地 — 1
適塾(緒方洪庵旧宅)
大阪府
緒方洪庵(文化7年・1810年 - 文久3年・1863年)は備中国足守藩士の子として生まれ、江戸で坪井信道に蘭学を学んだのち、天保9年(1838年)大坂瓦町で蘭学塾を開いた。弘化2年(1845年)に過書町(現・北浜3丁目)の商家を買い取り塾舎兼住居として移転、以後18年間この地で医学・蘭学の教育に専心した。自らは天然痘種痘の普及に尽力、安政5年(1858年)の大坂コレラ流行時には『虎狼痢治準』を著して治療法を広めるなど、公衆衛生の父とも呼ばれる。文久2年(1862年)幕命により江戸に出て奥医師・西洋医学所頭取を兼務したが翌年急逝。適塾から巣立った門人は千名を超え、日本近代化の人材供給源となった。
─ 完 ─
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