1666年、江戸で5代将軍綱吉の侍医・荻生方庵の次男として生まれた。14歳の時、父が綱吉の怒りを買って上総国本納村に流罪となり、貧困の中で独学で学問に励んだ。25歳で江戸に戻り、1696年、側用人・柳沢吉保に儒官として仕える。吉保のもとで14年間、漢文・政策・文芸の顧問を務め、綱吉の仁政(生類憐みの令など)に深く関与。1709年、吉保の失脚とともに退いて日本橋茅場町に私塾「蘐園塾(けんえんじゅく)」を開いた。初期は朱子学・仁斎の古義学を学んだが、明代の李攀竜・王世貞の古文辞学に傾倒し、「中国古代の言葉は古代の意味で読むべき」として古文辞学を確立、朱子・仁斎の両者を批判した。主著『弁道』『弁名』『論語徴』『政談』等。1716年以降、8代将軍吉宗に請われて政治顧問を務め、『政談』で徳川幕府の抜本的改革を建議した。1728年、江戸で62歳で没。