越前国(現・福井県)福井生まれ。横浜で育ち、英語を早くから習得した。東京大学(前身の開成学校)でアーネスト・フェノロサと出会い、日本美術の調査・研究に携わった。1889年に東京美術学校(現・東京藝術大学)の初代校長に就任し、洋画に押された日本画・工芸の振興に尽力した。しかし官僚的な体制への反発から1898年に辞職し、横山大観・下村観山らとともに「日本美術院」を設立して在野の美術活動を展開した。英文著書「The Book of Tea」(茶の本、1906年)は、茶道を通じて東洋の精神文化と審美観を西洋に紹介したベストセラーとなり、「Asia is One(アジアは一つ)」の思想を世界に発信した。ボストン美術館中国・日本美術部のキュレーターも務め、日本美術の国際的評価を高めた。自由奔放な個性と芸術への情熱を持ち、「天心」の号通り、天に心を置いた芸術家・思想家であった。1913年に茨城県の五浦海岸で逝去した。享年50歳。その思想は「東洋文明の自立」を訴えるものとして、アジア各地でも評価されている。