天文11年(1542年、一説に天文13年〔1544年〕)に生まれた。当初は織田信孝に仕えていたが、天正10年(1582年)の本能寺の変後、信孝と羽柴秀吉が対立すると信孝に背いて秀吉方に転じ、以後は豊臣家臣として活動した。天正18年(1590年)の小田原征伐では岩槻城攻めで功を挙げ、その功により伊勢亀山2万2千石を与えられ、翌天正19年(1591年)に入国して亀山城主となった。良勝は鎌倉時代以来関実忠に始まるとされる亀山城を大幅に改修し、天守を備えた近世城郭へと整備した。文禄3年(1594年)9月には鈴鹿郡内で1万5230石を加増された。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に属し、居城・亀山城を息子に託して氏家行広の守る桑名城に入り抗戦の構えを見せた。しかし関ヶ原本戦での西軍敗北を受け、翌日に東軍の山岡景友の説得に応じて降伏し桑名城を明け渡したが、赦されず切腹を命じられ自刃した。享年58(一説に59)。