岡本良勝
岡本良勝
伊勢亀山城を近世城郭に改修した豊臣家臣
1542-1600 · 享年 58歳
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亀山城(伊勢国)を訪れると出会えます
ゆかりの地 1か所
へぇ、と思う三話
信孝から秀吉へ——主君を変えて掴んだ亀山2万2千石
岡本良勝は当初、織田信孝に仕えていたが、本能寺の変後に信孝と秀吉が対立すると、信孝に背いて秀吉方についた。天正18年(1590年)の小田原征伐・岩槻城攻めでの功により伊勢亀山2万2千石を与えられ、亀山城主となった。良勝は城を大幅に改修し、天守を備えた近世城郭に造り替えて、亀山藩政の基礎を築いた。
関ヶ原の敗北と桑名城での降伏、そして切腹
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍についた良勝は、亀山城を息子に託し、氏家行広の桑名城に入って抗戦の構えを見せた。しかし西軍が本戦で敗れると、翌日には東軍の山岡景友の説得に応じて降伏し、桑名城を明け渡した。だが赦しは得られず、切腹を命じられて自刃した。享年58(一説に59)。豊臣家臣として時勢を読み続けた武将の、最後の誤算であった。
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生い立ちから最期まで
天文11年(1542年、一説に天文13年〔1544年〕)に生まれた。当初は織田信孝に仕えていたが、天正10年(1582年)の本能寺の変後、信孝と羽柴秀吉が対立すると信孝に背いて秀吉方に転じ、以後は豊臣家臣として活動した。天正18年(1590年)の小田原征伐では岩槻城攻めで功を挙げ、その功により伊勢亀山2万2千石を与えられ、翌天正19年(1591年)に入国して亀山城主となった。良勝は鎌倉時代以来関実忠に始まるとされる亀山城を大幅に改修し、天守を備えた近世城郭へと整備した。文禄3年(1594年)9月には鈴鹿郡内で1万5230石を加増された。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に属し、居城・亀山城を息子に託して氏家行広の守る桑名城に入り抗戦の構えを見せた。しかし関ヶ原本戦での西軍敗北を受け、翌日に東軍の山岡景友の説得に応じて降伏し桑名城を明け渡したが、赦されず切腹を命じられ自刃した。享年58(一説に59)。
人物像
主家を織田信孝から豊臣秀吉へと乗り換えるなど、時勢を見極める現実的な判断力を持つ武将であった。一方で城郭整備には手腕を発揮し、亀山城を近世的な城郭へと造り替えた実務能力の高さがうかがえる。関ヶ原では西軍に与して桑名城で抗戦する意志を見せたが、大勢が決すると降伏を選ぶ柔軟さも持ち合わせていたものの、最終的には赦されず切腹という厳しい結末を迎えた。
歴史的意義
岡本良勝が改修した亀山城は、江戸時代を通じて丹波亀山藩(後に亀岡藩)ではなく伊勢亀山藩の藩庁として存続し、現存する多聞櫓は三重県指定史跡となっている。良勝自身は関ヶ原で悲劇的な最期を遂げたが、彼が整えた近世城郭としての亀山城の基礎は、後の藩主たちに引き継がれ続日本100名城の一つに数えられるまでに至った。
─ 完 ─
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