character/[id]

PERSON
大隈重信
大隈重信
早稲田大学創立者・二度の総理大臣
1838-1922 · 享年 84歳
+ 推しに追加
家系図を見る
生涯
1838年、肥前佐賀藩士の家に生まれた。藩校弘道館で朱子学を学ぶも、のち蘭学・英学に転じた。明治維新後は新政府に出仕し、外国事務局判事・大蔵卿として貨幣制度の確立、鉄道敷設、地租改正などの近代化を主導。1881年の明治十四年政変で国会開設論を急進的に唱え伊藤博文らと対立、下野した。翌1882年、立憲改進党を結成すると同時に東京専門学校(現・早稲田大学)を早稲田の地に創立。「学問の独立」「在野精神」を掲げ、官学に対抗する私学の雄を築いた。1889年、条約改正交渉中に玄洋社員の爆弾に襲われ右脚を失う。のち第8代(1898年)、第17代(1914-1916年)内閣総理大臣を務め、日本初の政党内閣である隈板内閣を組織。1922年、84歳で没し、早稲田で国民葬が行われた。
人物像
豪放磊落にして弁舌爽やか。「諸君、わが輩は……」の演説は大衆に愛された。人を信じ抜き、若者に託す気風と、政敵にも礼を失わぬ度量を併せ持つ。落選・暗殺未遂・政権失脚にも屈しない不屈の楽天家。
歴史的意義
早稲田大学は日本有数の総合大学として発展し、政治家・経営者・文学者を輩出する一大私学となった。「学問の独立」「在野精神」の理念は今日も脈々と受け継がれている。政党政治の確立、条約改正、近代財政の基礎づくりにおいても明治日本に不可欠な存在であった。
逸話・エピソード
1882年——早稲田の田んぼに学校を建てる
明治十四年政変で下野した大隈は、政党結成と同時に「学問の独立」を掲げる私立学校の創立を決意した。当時の早稲田は東京の郊外で田畑が広がる寂しい土地であったが、自邸の隣接地を開いて東京専門学校を開校。わずか3学科・80名ほどの小所帯から出発したが、「官学に屈しない在野の学府」という理念は多くの若者を惹きつけ、のち日本を代表する総合大学へと発展した。
1889年——爆弾で右脚を失う
1889年10月18日、外務大臣として条約改正交渉にあたっていた大隈は、霞が関の外務省前で玄洋社員・来島恒喜の投げた爆弾に襲われた。爆弾は馬車の中で炸裂し、大隈は右脚を切断する重傷を負った。犯人の来島はその場で自害。以後大隈は義足をつけ、それでも政治活動・教育活動をやめなかった。「片脚を失っても、信念までは失わぬ」が彼の口癖となった。
ゆかりの地 — 1
護国寺
東京都
大隈重信(1838-1922)は明治の元勲・首相、早稲田大学創設者。1922年に死去すると国民葬が日比谷公園で営まれ、護国寺墓地に埋葬された。境内の大隈墓は早稲田大学関係者・自由主義者の聖地ともなり、命日(1月10日)には毎年墓参が行われる。墓石は重信の遺志により質素な作りだが、広い区画と参拝者の多さで知られる。
─ 完 ─
📱
アプリで巡礼を楽しむ
App Store からダウンロード
T · O · K · U