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PERSON
大村益次郎
大村益次郎
近代日本陸軍の創設者
1824-1869 · 享年 45歳
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生涯
周防国(現・山口県)の村医者の家に生まれ、大坂・緒方洪庵の適塾で蘭学・医学を学んだ。さらに長崎でシーボルトから西洋医学・兵学を学び、宇和島藩・幕府に仕えて兵学と翻訳に従事した。長州藩で高杉晋作の奇兵隊を支援し、四境戦争(1866年)では長州軍を実質的に指揮して幕府軍を撃退した。戊辰戦争では官軍の実質的な総指揮官として各地の戦いを指導し、軍事的才覚を遺憾なく発揮した。明治新政府では兵部省大輔(次官)として近代的な軍制の基礎を構築し、全国徴兵制・陸軍の洋式化を推進した。しかし旧来の士族勢力から反感を買い、1869年9月4日、京都で旧長州藩士らに刺され、11月5日に45歳で死亡した。靖国神社(東京・九段)の社頭に大村の銅像が立てられ、近代日本陸軍の創建者として顕彰されている。緒方洪庵に学んだ医師が国家の軍制を構築したという経歴は、幕末日本の人材の多様性を象徴している。
人物像
純粋に学問と実践に打ち込む直情径行な人物。身分や出自を問わず能力を重視し、旧来の権威に屈しない強直さが反感を招いた。医師としての出発点が示すように、知識を社会に役立てることへの献身は一貫していた。
歴史的意義
近代日本陸軍の制度的基盤を構築し、山県有朋らが継承する徴兵制陸軍の礎を作った。靖国神社に銅像が建てられた最初の人物として、日本の近代軍事史の出発点に立つ象徴的存在。
逸話・エピソード
近代日本陸軍の父——徴兵制を創案した大村益次郎の暗殺
大村益次郎は緒方洪庵の適塾で学び、長州藩で戊辰戦争の軍事総司令を務めた。上野彰義隊の戦い(1868年)を迅速に片付け、旧幕府軍の各地の抵抗を鎮圧した。維新後は兵部卿として近代日本陸軍の制度設計に着手し、徴兵制(国民皆兵)の基礎を作った。しかし1869年9月、大坂の旅館で長州出身の旧藩士から暗殺された。享年46歳。大村の死後、その構想は山県有朋が引き継いで1873年の徴兵令として実現した。靖国神社には創建者の銅像として大村益次郎像が建てられており、日本近代軍事史の出発点に立つ象徴的存在である。
関連する歴史的事件
1869
東京招魂社創建・靖国神社の誕生
明治2年(1869年)6月、明治天皇の思し召しにより、幕末の戊辰戦争で亡くなった官軍側の戦没者を慰霊するため、東京・九段坂上に「東京招魂社」が創建された。創建にあたり、大村益次郎が鎮座地の選定・施設の設計に深く関わった。明治12年(1879年)に「靖國神社」と改称。「靖国」の名は「国を靖(やす)んずる=国を平和にする」の意。西南戦争・日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦・太平洋戦争と、以後の国内外の戦争で亡くなった戦没者が次々と合祀され、最終的に約246万6千柱に及ぶ。吉田松陰・高杉晋作ら幕末の勤王の志士も祀られており、近代日本の国家的追悼施設として中心的役割を担ってきた。
ゆかりの地 — 2
靖国神社
東京都
靖国神社の参道入り口に立つ大村益次郎の銅像(1893年建立)は、靖国神社境内に建てられた最初の銅像である。長州出身の軍医・兵学者であり、明治新政府の陸軍建設に尽力した「日本陸軍の父」。戊辰戦争では官軍の総司令官として幕府軍を制圧したが、1869年に反感を持った武士に刺され、同年死去。招魂社創建の翌年に没した益次郎の功績をたたえ、高村光雲・岡崎雪声が制作した銅像は近代日本彫刻史の先駆けともいわれる。
適塾(緒方洪庵旧宅)
大阪府
大村益次郎(文政7年・1824年 - 明治2年・1869年)は長州周防の村医の子として生まれ、嘉永6年(1853年)適塾に入門し塾頭を務めた。緒方洪庵の下で蘭学・医学・兵学を修め、漢訳蘭書を渉猟して近代軍事学の知識を吸収した。宇和島藩・幕府・長州藩に仕え、戊辰戦争では討幕軍総司令官として彰義隊を打破、会津戦役を指揮し新政府軍勝利の立役者となる。明治2年(1869年)兵部大輔に就任し日本陸軍の基礎を築いたが、同年9月京都木屋町で襲撃され重傷、11月に没した。「日本陸軍の父」「殖産興業の先駆者」と讃えられる。適塾で培った蘭学知識と論理的思考が、近代日本の軍制改革を可能にした。
─ 完 ─
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