近江国の豪族・小野氏の出身。607年、推古天皇・聖徳太子の命を受けて第1回遣隋使として隋に渡った外交官。「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」という国書を隋の煬帝に奉呈したことで知られる。前例のない対等な表現に煬帝は激怒したとされるが、翌608年、裴世清を伴って帰国し、隋との正式な国交を開いた。同年に第2回遣隋使として再び渡海し、高向玄理・南淵請安らを留学生として隋に残した。帰路、隋から持ち帰った返書を「百済で盗まれた」と報告したが、実際に紛失したのかどうかは諸説ある。603〜614年頃まで複数回の遣隋使に関与し、日中外交の基礎を築いた。生没年は不詳だが、子・毛人(634年没)の存在から7世紀前半に活躍したとみられる。