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PERSON
押川方義
押川方義
東北学院・宮城学院創立者
1850-1928 · 享年 78歳
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生涯
1850年、出羽国米沢藩士の家に生まれた(異説として伊予国宇和島藩出身とも)。維新後、横浜に出てJ.H.バラ・S.R.ブラウンらに英語・キリスト教を学び、「横浜バンド」の一員として受洗。明治初期日本プロテスタントの中核を担った。1881年、新潟の北越学館を経て仙台に赴任。1886年、米国ドイツ改革派教会宣教師W.E.ホーイと協力して「仙台神学校」を創立、これが東北学院(現・東北学院大学)の始まりとなった。初代院長として東北地方のキリスト教教育の基礎を築く。1888年、併せて女子教育のため「宮城女学校」(現・宮城学院女子大学)を設立。1891年、院長を辞して朝鮮・中国の伝道に赴き、のち政治運動(立憲政友会から代議士)にも参画。日露戦争前には対露強硬論を唱え、国家主義的色彩も帯びた。1928年、78歳で没。
人物像
熱情的な伝道者にして行動家。「涙の雄弁家」と呼ばれるほど説教に感情がこもり、聴衆を動かした。東北の辺地に赴いて学校を作り、朝鮮・中国にも渡るなど行動範囲が広い。晩年は国粋主義的傾向が強まり、キリスト者としての評価は分かれるが、日本プロテスタント初期の巨星の一人であることは間違いない。
歴史的意義
東北学院は仙台を拠点とする東北最大のキリスト教大学として発展、1949年に大学となった。宮城学院女子大学も東北唯一のキリスト教系女子大学として現在も存続している。両校は「LIFE LIGHT LOVE」の建学精神を掲げ、東北のキリスト教教育・女子教育の伝統を守り続けている。押川の次男・春浪は『海底軍艦』などの冒険小説で明治少年文学の先駆者となり、文化面でも足跡を残した。
逸話・エピソード
1886年——仙台にキリスト教学校を創る
明治初期、キリスト教禁制の解除は1873年と比較的新しく、東北地方での伝道は困難を極めた。押川は1881年に仙台に入り、1886年、米国ドイツ改革派教会のホーイ宣教師とともに「仙台神学校」を開校。寒村の片隅に過ぎなかった仙台に、伝道者養成の拠点が生まれた。当初は数名の生徒から始まったが、押川の熱情的な説教と教育方針に惹かれて生徒は増え、東北におけるキリスト教文化の拠点となっていく。後の東北学院は、仙台の高等教育機関として重要な位置を占めるに至る。
横浜バンド——日本プロテスタント三源流の一角
横浜バンドとは、1872年に横浜で受洗した日本人キリスト者グループを指す。熊本バンド・札幌バンドと並び日本プロテスタントの三源流と称される。押川方義・井深梶之助・植村正久・本多庸一らが中核メンバーで、のちの明治学院・東北学院・青山学院・同志社など主要キリスト教系学校の創立に深く関わった。押川は横浜バンドの指導的人物として、受洗直後から各地に伝道に赴き、特に東北地方の開拓伝道で重要な役割を果たした。
─ 完 ─
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