1850年、出羽国米沢藩士の家に生まれた(異説として伊予国宇和島藩出身とも)。維新後、横浜に出てJ.H.バラ・S.R.ブラウンらに英語・キリスト教を学び、「横浜バンド」の一員として受洗。明治初期日本プロテスタントの中核を担った。1881年、新潟の北越学館を経て仙台に赴任。1886年、米国ドイツ改革派教会宣教師W.E.ホーイと協力して「仙台神学校」を創立、これが東北学院(現・東北学院大学)の始まりとなった。初代院長として東北地方のキリスト教教育の基礎を築く。1888年、併せて女子教育のため「宮城女学校」(現・宮城学院女子大学)を設立。1891年、院長を辞して朝鮮・中国の伝道に赴き、のち政治運動(立憲政友会から代議士)にも参画。日露戦争前には対露強硬論を唱え、国家主義的色彩も帯びた。1928年、78歳で没。