1559年頃、近江国の出身とされ、若くして羽柴秀吉に仕えて頭角を現した。五奉行に準じる宰相的地位を得て、太閤検地の実務や朝鮮出兵の兵站など豊臣政権の重要な職務を担った。ある時期から業病(ハンセン病とも)を患い、顔を白い頭巾で覆うようになったと伝わる。茶会の席で誰も口をつけなかった茶碗を石田三成が吉継のために飲み干したという逸話は、二人の友情の深さを象徴するエピソードとして語り継がれている。1600年の関ヶ原前夜、三成の挙兵計画を知った吉継は「勝ち目がない」と繰り返し翻意を求めた。しかし三成の決意が固いと悟ると、友の義を立てるために西軍への参加を決意した。関ヶ原では伊勢路から北国街道方面を固め、本戦では小早川秀秋の裏切りを事前に予見して対策を講じた。しかし次々と寝返りが続く中、圧倒的な劣勢に追い込まれ、家臣の湯浅五助が介錯して自刃した。享年41歳とされる。大谷吉継と石田三成の友情は日本の義の物語として語り継がれ、吉継の墓所がある福井県敦賀市関ヶ原には今も多くの人が詣でる。