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PERSON
大友宗麟
大友宗麟
九州の覇者
1530-1587 · 享年 57歳
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生涯
1530年、豊後国(現大分県)の守護大名・大友義鑑の嫡男として生まれた。1550年、父義鑑が家臣に暗殺される「二階崩れの変」が起こり、混乱の中で21歳の宗麟が当主となった。その後は北九州6カ国以上を傘下に収める戦国最大級の大名に成長し、豊後府内(現大分市)を貿易都市として栄えさせた。南蛮貿易によりポルトガルから鉄砲・火薬を大量に輸入し、九州制覇を目指した。フランシスコ・ザビエルとも会見し、キリスト教に入信して洗礼名フランシスコを受けた。宣教師の布教を保護し、府内には教会や病院が設けられた。1582年には天正遣欧少年使節(伊東マンショら4名)の派遣を支援し、欧州との外交・文化交流を促進した。しかし1578年の耳川の戦いで島津義久に大敗し、以後は島津の北上に圧迫され続けた。1586年に秀吉に上京して九州征伐を直訴。翌1587年の秀吉軍上陸を見届けるように、豊後において病没した。享年57歳。
人物像
好奇心旺盛で進取の気性に富む。南蛮文化への傾倒は家臣団の反発を招いたが、信仰を貫いた。戦国大名としての野心と宗教的理想が共存する複雑な人物。
歴史的意義
日本のキリシタン大名の代表格。天正遣欧使節は日欧交流史の金字塔。秀吉に九州征伐を要請したことで、豊臣政権の九州支配の端緒を開いた。
逸話・エピソード
大友宗麟とキリシタン大名——「ザビエル来航と九州のキリスト教」
大友宗麟はフランシスコ・ザビエルと面会しキリスト教に関心を持ち、後にフランシスコ(洗礼名)として受洗した。豊後(現・大分県)を拠点に九州の覇権をめぐって島津・毛利と争い、耳川の戦い(1578年)で島津に大敗したことが大友氏没落の始まりとなった。豊臣秀吉の九州攻めに際して秀吉に頭を下げ、キリシタン大名の代表的存在として日本のキリスト教史に名を残す。
関連する歴史的事件
1578
耳川の戦い
1578年(天正6年)、宮崎県日向市の耳川(現在の小丸川)付近において、島津義久率いる島津軍が大友宗麟率いる大友軍を大破した戦い。九州の覇権を争う両雄の激突で、大友方は多くの重臣を失う壊滅的な大敗を喫した。この戦いにより大友氏の勢力は急速に衰退し、島津氏の九州制覇への道が開かれた。宗麟はキリシタン大名として知られ、この敗戦後もキリスト教への信仰を保ち続けた。島津氏はその後北上を続け、龍造寺・大友両氏を圧迫して九州のほぼ全域を支配下に置くことになる。
─ 完 ─
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