1530年、豊後国(現大分県)の守護大名・大友義鑑の嫡男として生まれた。1550年、父義鑑が家臣に暗殺される「二階崩れの変」が起こり、混乱の中で21歳の宗麟が当主となった。その後は北九州6カ国以上を傘下に収める戦国最大級の大名に成長し、豊後府内(現大分市)を貿易都市として栄えさせた。南蛮貿易によりポルトガルから鉄砲・火薬を大量に輸入し、九州制覇を目指した。フランシスコ・ザビエルとも会見し、キリスト教に入信して洗礼名フランシスコを受けた。宣教師の布教を保護し、府内には教会や病院が設けられた。1582年には天正遣欧少年使節(伊東マンショら4名)の派遣を支援し、欧州との外交・文化交流を促進した。しかし1578年の耳川の戦いで島津義久に大敗し、以後は島津の北上に圧迫され続けた。1586年に秀吉に上京して九州征伐を直訴。翌1587年の秀吉軍上陸を見届けるように、豊後において病没した。享年57歳。