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PERSON
龍造寺隆信
龍造寺隆信
肥前の熊
1529-1584 · 享年 55歳
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生涯
1529年(享禄2年)2月15日、肥前国佐嘉郡水ヶ江(現・佐賀県佐賀市)に龍造寺氏の一族として生まれた。1536年、7歳で出家し法名「円月」を称した。しかし1545年、祖父・家純と父・周家が少弐氏の家臣・馬場頼周によって誅殺されると、曽祖父・家兼に連れられて筑後国の蒲池氏のもとへ脱出。家兼は挙兵して馬場頼周を討ち、龍造寺氏を再興した。家兼の遺言により円月は還俗して「胤信」、のちに「隆信」と改名し、水ヶ江龍造寺氏の家督を継いだ。以後、肥前国内の諸勢力を次々と制圧し、大友氏の衰退に乗じて肥前・肥後(半国)・筑前・筑後・壱岐・対馬に勢力を拡大。「五州二島の太守」「肥前の熊」と称された。九州三強の一角として大友宗麟・島津義久と覇権を争った。しかし1584年(天正12年)3月24日、島原半島の沖田畷の戦いで、離反した有馬晴信と島津家久の連合軍に敗北。龍造寺軍は約2万5千(一説に6万)の大軍であったが、湿地帯に誘い込まれて身動きが取れなくなり、隆信は陣中で討ち取られた。享年56。隆信の死後、龍造寺家の実権は家臣の鍋島直茂に移り、やがて鍋島藩へと変わっていった。
人物像
豪胆にして苛烈な性格。僧侶から還俗して戦国大名にのし上がった異色の経歴を持つ。敵対者への容赦ない処断で恐れられたが、その一方で領国経営の手腕にも優れ、佐賀の基盤を築いた。晩年は肥満体となり「肥前の熊」の異名に拍車をかけた。
歴史的意義
九州三強の一角として北九州の歴史に大きな足跡を残した。龍造寺家から鍋島家への政権移行は「鍋島化け猫騒動」など怪談の素材にもなった。沖田畷の戦いは日本戦史における寡兵による大軍撃破の代表例として知られる。
逸話・エピソード
僧侶から戦国大名へ——還俗と龍造寺再興
龍造寺隆信は7歳で出家し「円月」の法名を与えられたが、1545年に祖父と父が少弐氏の家臣・馬場頼周に謀殺されるという悲劇に見舞われた。幼い円月は93歳の曽祖父・家兼に連れられて筑後国の蒲池氏のもとへ脱出。家兼は蒲池鑑盛の援助を受けて挙兵し、仇敵・馬場頼周を討って龍造寺氏を再興した。家兼は死に際して円月の器量を見抜き、還俗して家督を継ぐよう遺言。こうして僧侶から武将へと転身した隆信は、やがて九州を揺るがす大勢力を築き上げることになる。
沖田畷の戦い——大軍が湿地に沈んだ日
1584年3月24日、龍造寺隆信は約2万5千の大軍を率いて島原半島に進軍し、離反した有馬晴信を討とうとした。しかし有馬軍は島津家久の援軍を得ており、隆信軍を沖田畷の狭い湿地帯に誘い込んだ。大軍は湿地に足を取られて身動きが取れず、島津・有馬連合軍の約6千に対して数的優位を全く生かせないまま壊滅的な敗北を喫した。隆信自身も床几に座ったまま動けなくなったところを島津方の川上忠堅に発見され、討ち取られた。この戦いは、地形を無視した大軍の愚を示す戦史の教訓として語り継がれている。
関連する歴史的事件
1584
沖田畷の戦い
1584年(天正12年)、肥前国島原(現在の長崎県島原市)の沖田畷において、島津家久率いる島津軍が龍造寺隆信率いる龍造寺軍を大破した戦い。九州の覇権をめぐる両雄の決戦で、龍造寺隆信は島津方の罠にはまり泥沼地帯に誘い込まれて壊滅的打撃を受け、隆信自身も討ち取られた。これにより肥前の雄・龍造寺氏は急速に衰退し、以後は鍋島直茂が実権を握る形で勢力を維持した。島津氏はこの勝利でさらに九州制覇に近づき、大友氏と並ぶ二大勢力との対決へと向かっていった。
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─ 完 ─
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