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PERSON
松平定信
松平定信
寛政の改革
1759-1829 · 享年 70歳
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生涯
宝暦9年(1759年)、八代将軍・徳川吉宗の孫として生まれた。白河藩主となり、藩政改革に成功して名君の誉れを得た。1787年に老中首座に就任し、田沼意次の後継として幕政の実権を握った。寛政の改革(1787〜1793年)を推進し、財政再建・風俗粛清・旗本・御家人の救済などに取り組んだ。朱子学を正学とし、「寛政異学の禁」で他の学派を排除した。また棄捐令で旗本・御家人の借金を帳消しにし、武士の救済を図った。農村の復興や倹約令も推進した。しかしその厳格すぎる政策は民衆の不満を招き、「白河の清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋しき」と風刺された。1793年に老中を辞任。晩年は隠居して文人として活動した。
人物像
高い理想と強固な道徳観を持つ謹厳実直な政治家。吉宗の孫として厳格な儒教的道徳に基づく政治を目指した。理想主義的すぎる面があり、人間の欲望や社会の実態を考慮しない政策が反感を招いた。文人としての側面も持ち、多数の著作を残した。自らの理念に忠実であったがゆえに、現実政治の妥協ができず孤立した。
歴史的意義
寛政の改革は江戸幕府の三大改革のひとつとして歴史に刻まれた。財政再建や社会秩序の回復に一定の成果を上げたが、過度な規制が社会の活力を損なった面もある。「白河の清さ」の風刺句は、改革政治の限界と民衆の本音を端的に表した名句として語り継がれている。
逸話・エピソード
寛政の改革——松平定信の倹約令と幕府財政再建
松平定信は老中首座として「寛政の改革」(1787〜93年)を断行した。棄捐令(旗本・御家人の借金の一部を帳消し)・囲米制(各藩に米の備蓄義務)・倹約令(贅沢の禁止)など緊縮財政政策を実施した。また異学の禁(陽明学などの禁止)で朱子学を正学とした。改革は成果を上げたが、厳しすぎる規制への反発もあり定信は辞職した。「白河の清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋しき」と揶揄された。
関連する歴史的事件
1782
天明の大飢饉
天明2年(1782年)から天明8年(1788年)まで、約7年間にわたって続いた江戸時代最大の飢饉。享保の大飢饉・天保の大飢饉と並ぶ江戸三大飢饉の一つであり、死者数・被害範囲ともに最悪とされる。1782年の冷夏と長雨による凶作から始まり、1783年7月には浅間山が大噴火して膨大な火山灰を降らせ、成層圏の塵が日射を遮って気温がさらに下降した。同年アイスランドのラキ火山噴火も加わり、世界的な寒冷化が発生。東北地方は壊滅的な打撃を受け、特に津軽・南部藩では餓死者が続出、人肉食の記録さえ残る。全国の死者は30万から100万人とも推定され、津軽藩だけで10万人超が失われたとされる。食料を求める飢民が江戸・大坂に流入し、1787年には全国30余りの都市で打ちこわしが発生(天明の打ちこわし)、田沼意次政権崩壊と松平定信の登場(寛政の改革)の直接的引き金となった。この大飢饉の記憶は、囲米制度の創設など以後の飢饉対策の原点となった。
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