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PERSON
西郷隆盛
西郷隆盛
維新三傑・陸軍大将
1828-1877 · 享年 49歳
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生涯
薩摩藩(現鹿児島県)出身。島津斉彬に見出され藩政に参画。安政の大獄後に一時配流されたが、文久の改革で復帰した。1868年の戊辰戦争では官軍の最高指揮官として江戸無血開城を実現し、明治維新の成就に決定的な役割を果たした。維新後は陸軍大将・参議として政府の中枢を担ったが、1873年の征韓論政変で大久保利通・木戸孝允らと対立し下野した。帰郷後、旧士族の不満を背景に私学校を設立。1877年、西南戦争を起こすが政府軍に敗れ、城山において自刃した。「敬天愛人」を座右の銘とし、木戸孝允・大久保利通とともに「維新三傑」に数えられる。
人物像
豪放磊落で義理人情に厚く、部下や民衆から絶大な人望を誇った。権力や金銭に淡泊で、自らの信念を曲げない武人気質の人物。その大きな体躯と眼力は人を圧倒したという。「最後の武士」として敗れた姿も含め後世に強烈なイメージを残した。
歴史的意義
上野公園の銅像は東京の著名なランドマークの一つ。1977年に名誉回復され正三位を追贈された。司馬遼太郎の小説や大河ドラマで繰り返し取り上げられ、近現代日本人が最も愛する歴史的人物の一人。鹿児島では郷土の英雄として現在も熱烈に敬われている。
逸話・エピソード
江戸無血開城
勝海舟との会談で江戸城の無血開城を実現。100万の江戸市民を戦火から救った。
西南戦争と最期
1877年、不満を持つ薩摩の士族と共に挙兵。城山で政府軍に包囲され「もうここでよか」と自刃した。
名言
辞世
「晋どん、もうここでよか」
「敬天愛人」
関連する歴史的事件
1862
生麦事件
文久2年(1862年)8月21日、武蔵国橘樹郡生麦村(現在の神奈川県横浜市鶴見区生麦)で、薩摩藩島津久光の行列を乱したイギリス商人4名が薩摩藩士に斬殺・負傷させられた事件。幕末の攘夷運動を象徴する国際事件として知られる。勅使・大原重徳を警護して江戸から京都へ向かう途中だった久光の行列に、横浜居留地から乗馬で遠乗りに出ていたイギリス人リチャードソンら4名が遭遇。日本の慣習を知らなかった彼らが行列の中を馬で横切ろうとしたところ、無礼討ちとして奈良原喜左衛門らが斬りかかり、リチャードソンが死亡、他2名も重傷を負った(女性1名は無傷)。これに激怒した英国は幕府に10万ポンド、薩摩藩に犯人引き渡しと2万5千ポンドの賠償を要求。幕府は賠償に応じたが薩摩藩は拒否し、翌1863年7月の薩英戦争(鹿児島砲撃)へと発展した。この戦争で薩摩は英国海軍の近代兵器の威力を痛感し、従来の攘夷論から開国・富国強兵・倒幕路線へと大転換。生麦事件は日本の近代化と明治維新への重要な契機となった。
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ゆかりの地 — 6
靖国神社
東京都
西郷隆盛(1828〜1877年)は靖国神社に祀られていない。これは靖国神社が政府・官軍側の戦没者を祀る施設であるのに対し、西郷が1877年の西南戦争で政府軍に反旗を翻した「賊軍」の首領として戦死したためである。維新三傑の一人にして「敬天愛人」を信条とした西郷の不在は、靖国神社の性格を端的に示す。ただし西郷の部下の多くは明治初期の戦争で官軍側として戦い、靖国に祀られている。『翔ぶが如く』などで描かれる西郷の悲劇的最期と靖国不在の問題は、近代日本の英雄観・歴史観の複雑さを象徴している。
照国神社
鹿児島県
照国神社の祭神・島津斉彬は西郷を見出した恩人。斉彬の死後も西郷はその遺志を継いで維新に尽力した。西郷にとって斉彬への報恩の念は生涯変わらず、この神社は西郷の原点ともいえる場所。
南洲墓地
西南戦争で戦死した薩軍将兵2,023名と共に眠る西郷の墓。「敬天愛人」の精神を貫いた生涯の終着点。隣接する南洲神社では西郷を祭神として祀り、今も鹿児島県民の心の拠り所となっている。
大久保利通像
大久保と同じ加治屋町で育った幼馴染。二人は共に維新を成し遂げたが、維新後の国の在り方をめぐり対立。西南戦争では敵味方に分かれ、日本近代史の最も悲しい物語となった。
西郷隆盛像(上野)
明治31年に除幕された高村光雲作の銅像。愛犬ツンを連れた兎狩り姿で、西南戦争で「朝敵」となった西郷の名誉回復の象徴として建立された。除幕式で夫人の糸子が「うちの人はこんな顔じゃなか」と語った逸話は有名。
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