1868年(慶応4年)8月から9月にかけて行われた戊辰戦争の重要な戦局。会津藩主・松平容保は京都守護職として新選組を傘下に収め、長州・薩摩と敵対した。鶴ヶ城(若松城)を拠点に会津藩は新政府軍の総攻撃に一カ月以上抵抗したが、圧倒的な兵力差の前に降伏した。この戦争で多くの悲劇が生まれた。藩校日新館に学ぶ10代の少年兵・白虎隊は飯盛山から城が炎上していると誤信し、集団自刃した。また女性たちも娘子軍として戦闘に参加したことで知られる。会津藩の徹底抗戦は「義」への忠誠として高く評価される一方、降伏後の藩士・藩民への処遇は過酷なものとなった。土方歳三率いる新選組残党も斎藤一らとともに会津の防衛戦に加わった。会津若松市内には鶴ヶ城、白虎隊の墓がある飯盛山、新選組関連の史跡など、会津戦争に関する多くの遺跡が集中しており、幕末史ファンの聖地となっている。
斎藤一は会津戦争において新選組残党の一員として戦い、会津藩のために奮闘した。維新後は会津の山川家を通じて「藤田五郎」と改名し、新しい時代に適応した。