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PERSON
佐藤栄作
佐藤栄作
沖縄返還を実現したノーベル平和賞首相
1901-1975 · 享年 74歳
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生涯
1901年3月27日、山口県熊毛郡田布施町に佐藤秀助・茂世の三男として生まれた。兄は岸信介(佐藤家からの養子で姓が異なる)。第五高等学校を経て東京帝国大学法学部独法科卒業(1924年)、鉄道省に入省。鉄道官僚として頭角を現し、1948年運輸事務次官を経て1949年第3次吉田内閣の官房長官に大抜擢、政界入り。以後、郵政・電気通信・建設・大蔵・通産大臣等を歴任、吉田学校の中核となる。1964年11月9日、池田勇人退陣後を受けて第61代内閣総理大臣に就任。第62・63代と連続3期、1972年7月7日まで7年8ヶ月(連続2,798日)の長期政権を運営、戦後日本最長の連続首相記録を打ち立てた(後に安倍晋三に抜かれる)。1965年日韓基本条約締結、1967年衆議院演説で「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」の非核三原則を提唱、1971年6月17日沖縄返還協定調印、1972年5月15日沖縄施政権返還を実現した。1974年12月、非核三原則と沖縄返還の業績により日本人初のノーベル平和賞を受賞。1975年6月3日、東京・築地の料亭で脳溢血を起こし、6月19日に74歳で没。
人物像
兄・岸信介の知性派に対し、佐藤は人情派・調整型の政治家。表向き穏やかで「ニコポン」(ニコッと笑ってポンと肩を叩く)と呼ばれた人心掌握術に優れた。一方で勤勉緻密な官僚出身らしく、政策の細部まで把握する執念を持ち、長期政権を運営した。「待ちの政治」「人事の佐藤」と評され、政敵を待ち、好機を逃さない忍耐強さが特徴。涙もろく、退陣会見でテレビカメラの前で号泣した姿は有名。
歴史的意義
沖縄返還は戦後日本外交最大の成果のひとつとされ、佐藤の歴史的評価を決定づけた。非核三原則は日本の「平和国家」アイデンティティの中核となり、ノーベル平和賞受賞でその国際的評価が確立。一方、近年公開された外交文書により、沖縄返還時に米軍核兵器の再持ち込みを認める「核密約」の存在が判明、非核三原則の理念と現実の乖離が議論されている。佐藤の長期政権は安倍晋三が破るまで戦後日本最長で、その間に大阪万博(1970年)開催、東名高速・山陽新幹線開業など、日本の繁栄を象徴する国家事業が次々に実現された。山口県田布施町には佐藤栄作と岸信介を顕彰する展示施設がある。
逸話・エピソード
沖縄返還の実現——1972年5月15日
佐藤は首相就任直後の1965年8月19日、現職首相として戦後初めて沖縄を訪問、「沖縄の祖国復帰なくして日本の戦後は終わらない」と表明した。1969年11月のニクソン大統領との首脳会談で「核抜き・本土並み」の沖縄返還に基本合意、1971年6月17日に沖縄返還協定に調印。1972年5月15日午前0時、沖縄の施政権が27年ぶりに日本に返還された。佐藤は東京・武道館で開催された記念式典で「戦後の終わりを告げる日」と感慨深く演説。一方、米軍基地の大半は残存し、現在まで続く「沖縄問題」の起点ともなった。返還当日、沖縄では雨が降り、「沖縄の涙」と表現された。
ノーベル平和賞受賞と「テレビ会見事件」——1972年/1974年
1972年6月17日の首相退陣会見で、佐藤は新聞記者の質問を拒否し「テレビカメラはどこにいるんだ」「新聞記者は出て行ってくれ」と発言。新聞記者団は一斉に退席し、テレビカメラの前で佐藤一人が会見する異例の事態となった。この「テレビ会見事件」は政治家とマスコミの関係を変える契機となった。1974年10月8日、佐藤に日本人初のノーベル平和賞授与が発表された。授賞理由は「核兵器の不拡散と沖縄返還における平和的努力」。同年12月10日、オスロでの授賞式に出席。1974年12月8日付の佐藤の日記には「最大の喜び」と記されているが、近年の研究では佐藤側が積極的にロビー活動を行っていたことも明らかになっている。
─ 完 ─
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