1576年7月、石山本願寺への海上補給路を遮断するため、織田信長は大坂湾に水軍を派遣した。しかし頼廉は毛利水軍(小早川隆景・村上水軍)と連携し、約800隻の大船団で織田方300隻を迎撃。雑賀衆の鉄砲隊と毛利の焙烙火矢を駆使して織田水軍を壊滅させた。この敗北に激怒した信長は、後に九鬼嘉隆に鉄甲船を建造させ、1578年の第二次木津川口の戦いで雪辱を果たすことになる。頼廉の指揮した海戦は、戦国期最大級の海上戦闘の一つとして戦史に残る。
頼廉の真の偉業は、一回の華々しい勝利よりも、10年間にわたり信長軍の包囲下で石山を守り抜いたことにある。食糧・弾薬の補給、各地一向一揆との連絡、諸大名との外交——これらすべてを司り、本願寺という宗教勢力を軍事的にも政治的にも機能させ続けた。頼廉の存在なしに石山合戦10年の抵抗はあり得なかった。まさに本願寺の「軍師」という称号にふさわしい、非常な器量の持ち主であった。
石山退去後も頼廉は教如に仕え、東本願寺の坊官として江戸幕府下でも重きをなした。89歳の天寿を全うするまで、信長・秀吉・家康・秀忠・家光の五人の天下人・将軍を見届けた。戦国期に少年として育ち、本願寺軍師として信長と10年戦い、江戸時代の平和な世に老いを迎えた頼廉の人生は、そのまま戦国から近世への転換期を体現している。戦国武将で89歳まで生きた例は極めて稀であり、頼廉はまさに「戦国の証人」と呼ぶべき存在であった。