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PERSON
武田信玄
武田信玄
甲斐の虎・風林火山
1521-1573 · 享年 52歳
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生涯
1521年、甲斐国躑躅ヶ崎館で武田信虎の嫡男として生まれ、幼名を太郎と称した。父・信虎は猛将だったが苛政で家臣の不満を招いており、1541年に信玄はそれを利用して父を駿河に追放し、21歳で甲斐の家督を継いだ。その後、精強な騎馬軍団を率いて信濃への侵攻を開始し、村上義清らを退けて信濃をほぼ掌握した。この過程で北信濃の諸豪族を支援した越後の上杉謙信と激突し、川中島(長野市)で1553年から1564年の間に計5度の合戦を繰り広げた。特に1561年の第四次川中島の戦いは両将が一騎打ちに及んだとも伝えられる激戦だった。孫子の兵法に基づく「風林火山」の旗を掲げ、甲斐・信濃・上野・駿河を支配下に置いた。釜無川の治水工事(信玄堤)・山梨の金山開発など内政・経済にも卓越した手腕を発揮し、甲斐の国力を大きく高めた。金山の富は強大な軍事力の財源ともなった。1572年に徳川・織田打倒の西上作戦を開始し、三方ヶ原の戦いで家康軍を大破したが、翌1573年に陣中で病没した。享年53歳。
人物像
知略と武勇を兼ね備えた稀代の名将。信玄堤に代表されるように民政にも優れ、甲斐の国力増強に尽力した。仏教への深い信仰を持ち、出家して「信玄」という法名を名乗った。謙信との宿命的なライバル関係は今も語り草となっている。
歴史的意義
信玄堤(釜無川の治水工事)は現在も甲府盆地を守る治水の模範とされる。「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」という言葉は、人材を最重要資源とする経営哲学として現代にも広く引用される。武田の騎馬軍団は戦国最強と称され、その軍法は諸大名に多大な影響を与えた。
辞世の句
辞 世 の 句
大ていは地に任せて肌骨好し 紅粉を塗らず自ら風流
逸話・エピソード
風林火山
軍旗に孫子の兵法「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」を掲げ、戦国最強の騎馬軍団を率いた。
名言
辞世
「大丈夫は 瓢箪の如し 風に吹かれて あちこちに」
「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」
関連する歴史的事件
1553
川中島の戦い
天文22年(1553年)から永禄7年(1564年)までの12年間に、甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信が信濃北部の川中島(現在の長野市南郊、犀川と千曲川の合流点)を主戦場として繰り広げた全5回の合戦。両雄の激闘は日本戦史のみならず文学・講談の世界でも長く語り継がれている。武田氏の信濃侵攻に抵抗する高梨政頼ら北信濃の国人衆を謙信が庇護したことが発端。とりわけ永禄4年(1561年)9月の第四次合戦が最も激烈で、謙信が「車懸りの陣」で武田本陣に突入し、単騎で信玄に斬りかかったという「三太刀七太刀」の逸話が生まれた。この戦いで武田軍は信玄の弟・典厩信繁、軍師・山本勘助ら重臣を失う大損害を被ったが、最終的に武田が戦略的に信濃を確保した。両軍とも決定的勝利を得られなかったものの、謙信が「義」を重んじ信玄に塩を送った「敵に塩を送る」故事や、両雄の一騎打ちなど、日本人の英雄観を象徴する数々の物語を生んだ戦いである。
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