1521年、甲斐国躑躅ヶ崎館で武田信虎の嫡男として生まれ、幼名を太郎と称した。父・信虎は猛将だったが苛政で家臣の不満を招いており、1541年に信玄はそれを利用して父を駿河に追放し、21歳で甲斐の家督を継いだ。その後、精強な騎馬軍団を率いて信濃への侵攻を開始し、村上義清らを退けて信濃をほぼ掌握した。この過程で北信濃の諸豪族を支援した越後の上杉謙信と激突し、川中島(長野市)で1553年から1564年の間に計5度の合戦を繰り広げた。特に1561年の第四次川中島の戦いは両将が一騎打ちに及んだとも伝えられる激戦だった。孫子の兵法に基づく「風林火山」の旗を掲げ、甲斐・信濃・上野・駿河を支配下に置いた。釜無川の治水工事(信玄堤)・山梨の金山開発など内政・経済にも卓越した手腕を発揮し、甲斐の国力を大きく高めた。金山の富は強大な軍事力の財源ともなった。1572年に徳川・織田打倒の西上作戦を開始し、三方ヶ原の戦いで家康軍を大破したが、翌1573年に陣中で病没した。享年53歳。