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PERSON
白瀬矗
白瀬矗
日本初の南極探検家・開南丸・大和雪原
1861-1946 · 享年 85歳
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生涯
1861年(文久元年)6月13日、出羽国由利郡金浦村(現・秋田県にかほ市)の浄土真宗本願寺派寺院・浄蓮寺の住職・白瀬知道の長男として生まれた。幼名・知教。幼少期、師・佐々木節斎から北極探検の話を聞き、11歳で「酒・茶・火・湯・餅」の五戒を立て生涯の探検家を志した。1879年陸軍教導団に入隊、1881年近衛騎兵連隊付となる。1894年、報効義会の児玉愛三郎らと共に千島列島最北の占守島(シュムシュ島)探検に参加、3年間滞在し北方探検の経験を積んだ。1910年(明治43年)11月29日、南極大陸到達を目指し木造帆船「開南丸」(204トン)で東郷平八郎から命名を受け、品川港から27名の隊員と出航。ウェリントン経由で南極海に進入したが、1年目は南氷洋の流氷に阻まれシドニーに退却。1911年11月再挑戦で南極に到達、1912年1月28日、5人の突進隊と28匹のソリ犬で南緯80度5分・西経156度37分地点に到達し「大和雪原(やまとゆきはら)」と命名、日章旗を掲げた。この時すでにアムンセン隊は極点到達(1911年12月14日)、スコット隊も同地点を目指して行軍中であり、白瀬隊は極点到達ではなく「大和雪原」という独自の到達点を記録した。1912年6月20日帰国、国民的英雄として迎えられたが、探検費用(総額12万円、現在価値で数十億円)の借金が残り、以後生涯にわたる映画・講演活動で全国・樺太・朝鮮・満州・中国・台湾を巡り借金返済。1931年、74歳でようやく完済。1946年9月4日、愛知県西尾町(現・西尾市)で腸閉塞のため85歳で没。
人物像
不屈の闘志と信念を持った探検家。11歳の誓いを生涯貫いた意志の強さは、日本史上稀に見る。軍人・探検家としての規律・勇気・忍耐力は一級で、南極到達の国民的英雄となったが、帰国後は借金に追われ不遇の晩年を過ごした。それでも探検の意義を語り続け、次世代の極地探検家たちに希望を与え続けた。
歴史的意義
白瀬矗はノルウェーのアムンセン、イギリスのスコットと並ぶ「南極探検史の3傑」の一人として世界的に知られる。彼の探検は日本が極地探検に参加した最初の事例であり、戦後の日本南極地域観測隊(昭和基地・あすか基地)に連なる伝統の源流となった。秋田県にかほ市には「白瀬南極探検隊記念館」があり、開南丸の模型・遺品・記録映画などを所蔵。愛知県西尾市には「白瀬南極探検隊長墓碑」がある。2012年は南極到達100周年で国内外で記念行事が開催された。
逸話・エピソード
11歳の誓い——「五戒」を立て探検家を志す
白瀬が11歳の時、寺子屋の師・佐々木節斎から北極探検の話を聞き強い感銘を受けた。当時の日本人には信じ難い「氷と雪の世界」の話に魅了された白瀬は、即座に極地探検家になることを誓い、「酒・茶・火・湯・餅」の五戒を立てた(寒冷地で生き抜くための節制)。この誓いを生涯守り続け、約50年後の61歳で南極到達を果たした。少年期の一念が人生を貫いた稀有な例として、日本の教育・偉人伝でしばしば語られる。
1912年1月28日——「大和雪原」命名
1912年1月28日午後、白瀬隊の突進隊(白瀬・武田輝太郎・三井所清菜・花守信吉・吉野実蔵の5人と28匹のソリ犬)は、ロス棚氷の東端・南緯80度5分・西経156度37分地点に到達した。白瀬は「ここより南方、経度156度から172度までの無人地域を大和雪原と命名し、日本領土とする」と高らかに宣言、日章旗を立てた。極点(南緯90度)には到達できなかったが、日本人として初めて南極大陸の内陸部に到達した記録として、日本探検史に燦然と輝く。この地点の緯度は、当時の日本人の南極到達記録としては世界に誇れるものであった。
─ 完 ─
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