1582年頃、堺の生まれとも摂津の生まれとも伝わる。幼くして出家し、石清水八幡宮(山城国、現・京都府八幡市)の社僧・滝本坊の住持となった。真言宗の僧として宗教的な職務を果たす傍ら、書・画・茶の三道に卓越した文化人として江戸初期の京都文化圏に名を馳せた。特に書においては近衛信尹・本阿弥光悦とともに「寛永の三筆」と称され、弘法大師の書を独自に研究・発展させた「大師流」の書風を確立した。後水尾天皇や徳川家光とも茶の縁で繋がり、当時の文化人の交流の中心的存在であった。晩年、石清水八幡宮の境内に「松花堂」と名付けた質素な草庵を構え、茶の湯と芸術に没頭した。この草庵で四分割した土器(かわらけ)を用いた料理の盛り付け方が「松花堂弁当」の原型とされる。1639年に58歳で没した。