1824年、シーボルトは長崎奉行の許可を得て、長崎郊外鳴滝に私塾を開いた。日本人としては初めて外国人教師から体系的な西洋医学・自然科学を学べる場であった。敷地内には薬草園が作られ、学生たちは実習を通じて近代科学の方法論を身につけた。高野長英・伊東玄朴ら後に日本医学史を動かす人材がここから巣立った。鳴滝塾は単なる医学校ではなく、日本近代化の知的源流の一つである。
1828年、シーボルトが日本を離れる直前、台風で座礁した船から禁制品が発見された。中には幕府天文方・高橋景保から入手した伊能忠敬の日本地図が含まれており、大問題となる。高橋は獄死、シーボルトは国外追放・再渡航禁止処分となった。弟子たちの多くも処罰された。彼が日本に残した娘イネはわずか2歳であった。父は29年間、日本の土を踏むことを許されなかった。科学的探究心が国家機密の壁に阻まれた象徴的事件である。
1858年の日蘭修好通商条約締結により追放令が解かれ、1859年、シーボルトは63歳で再び長崎に上陸した。成人した娘イネと再会し、幕府の外交顧問として江戸にも滞在した。しかし時代は開国・攘夷の激動期にあり、彼の助言は必ずしも歓迎されなかった。1862年に日本を離れ、1866年ミュンヘンで生涯を閉じた。日本を愛し、日本に愛された一人の西洋人の、遠くも短からぬ往還の物語である。