蘇我蝦夷の子として生まれ、祖父・馬子以来三代にわたって蓄積された蘇我氏の権勢を背景に、幼い頃から権力の中枢に身を置いた。父・蝦夷が大臣として朝廷を掌握すると、入鹿はその権力をさらに強化し、皇位継承問題にまで深く介入した。643年、当時最有力の皇位継承者であった聖徳太子の子・山背大兄王を自邸ごと軍勢で包囲し、一族もろとも自害させた。この行為は天皇家に直接手をかけるに等しく、朝廷内外の反感を高めた。また自ら邸宅を「上宮門」「谷宮門」と称させ、父・蝦夷が仮の大臣の証として紫の冠を用いるなど、天皇に準じた振る舞いを示した。これらの専横が中大兄皇子と中臣鎌足の倒蘇我計画を加速させた。645年6月12日、飛鳥板蓋宮で三韓使節の朝貢の儀において、皇極天皇の眼前で中大兄皇子ら一味に斬りかかられ絶命した(乙巳の変)。翌日、父・蝦夷も屋敷に火を放ち自害。蘇我本宗家は滅亡した。