845年、代々文章博士を輩出した学者の家・菅原氏に生まれた。幼少から神童と呼ばれ、11歳で漢詩を作ったと伝わる。文章博士・讃岐守・蔵人頭などを歴任し、宇多天皇の篤い信任を受けて右大臣にまで昇進した。学者出身でありながら、藤原氏全盛の時代に政治の中枢に迫る異例の出世であった。900年に宇多天皇が醍醐天皇に譲位すると後ろ盾を失い、翌901年に左大臣・藤原時平の讒言により突如太宰府(福岡)の大宰権帥として九州に左遷された。京を去る際、自邸の梅を見て「東風吹かばにほひおこせよ梅の花主なしとて春を忘れるな」と詠んだ歌は後世に伝えられる名歌となった。太宰府では官舎に幽閉同然の生活を強いられ、失意と望郷の念の中、903年2月25日に59歳で没した。没後、京都では大火・疫病・皇族の相次ぐ死など災厄が続発し、道真の怨霊によるものと恐れられた。919年に太宰府天満宮が創建され、947年には京都に北野天満宮が建立されて「天神様」として祀られた。