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PERSON
杉原千畝
杉原千畝
命のビザ
1900-1986 · 享年 86歳
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生涯
岐阜県出身の外交官。幼少期から語学の才を発揮し、ハルビンでロシア語を学んで外務省に入省した。1940年、リトアニア・カウナスの日本領事館に赴任中、ナチスの迫害から逃れようとするユダヤ人難民が連日領事館前に押し寄せ、「ビザを発給してほしい」と懇願した。外務省への請訓に三度拒絶されながらも、「私に頼ってきた人々を見殺しにはできない」と人道的見地からビザを発給する決断を下した。約1ヶ月間で約2,139通のビザを妻・幸子とともに手書きし、約6,000人の命を救った。列車で出発する最後の瞬間までビザを書き続けたと伝わる。戦後は外務省を去り、商社に勤めながら長く無名であった。1985年にイスラエルから「諸国民の中の正義の人」として表彰され、その人道的行為が世界に知られるようになった。2000年に日本外務省も公式に名誉回復し、杉原の勇気は今も語り継がれている。岐阜県八百津町には「人道の丘公園」が整備され、その記念館には世界中から訪問者が訪れる。
人物像
良心に従い、職を賭してでも人命を救う決断を下した人道主義者。「私に頼ってきた人々を見殺しにすることはできない」という信念で行動した勇気ある外交官。
歴史的意義
イスラエルの「諸国民の中の正義の人」に日本人で唯一認定。「命のビザ」は人道外交の象徴として世界的に知られる。2000年に外務省が公式に名誉回復。
逸話・エピソード
「私に頼ってきた人を見捨てることはできない」
外務省から三度にわたってビザ発給を拒絶された杉原は、妻・幸子と深夜まで話し合い、「人道に背くことはできない」と決断した。翌朝から約1ヶ月間、1日100通以上のビザを手書きし続けた。「私は日本政府の命令に背いたかもしれないが、神の命令に従った」と後年語った。
列車が動き出す最後までビザを書き続けた
1940年9月1日、カウナスを離れる列車に乗り込んだ後も、窓から身を乗り出してビザを書き続けた。駅に集まった難民たちに「申し訳ない、もう書けない」と詫びながら、列車が動き出すまで一枚でも多くビザを手渡した。難民の一人が後に「あの瞬間、私たちは神に救われたと感じた」と証言している。
─ 完 ─
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