岐阜県出身の外交官。幼少期から語学の才を発揮し、ハルビンでロシア語を学んで外務省に入省した。1940年、リトアニア・カウナスの日本領事館に赴任中、ナチスの迫害から逃れようとするユダヤ人難民が連日領事館前に押し寄せ、「ビザを発給してほしい」と懇願した。外務省への請訓に三度拒絶されながらも、「私に頼ってきた人々を見殺しにはできない」と人道的見地からビザを発給する決断を下した。約1ヶ月間で約2,139通のビザを妻・幸子とともに手書きし、約6,000人の命を救った。列車で出発する最後の瞬間までビザを書き続けたと伝わる。戦後は外務省を去り、商社に勤めながら長く無名であった。1985年にイスラエルから「諸国民の中の正義の人」として表彰され、その人道的行為が世界に知られるようになった。2000年に日本外務省も公式に名誉回復し、杉原の勇気は今も語り継がれている。岐阜県八百津町には「人道の丘公園」が整備され、その記念館には世界中から訪問者が訪れる。