推古天皇と聖徳太子——女性天皇と摂政による国家改革
推古天皇は593年に即位した日本史上初の女性天皇(実質的に)だった。甥の聖徳太子を摂政に任命し、冠位十二階・十七条憲法の制定、遣隋使の派遣など飛鳥時代の国政改革を推進した。仏教を国家の基軸とする政策も推し進め、飛鳥文化の開花をもたらした。「天皇」という称号の使用が定まったのもこの時期とされる。
欽明天皇の治世(539〜571年)には、百済の聖明王から仏像・経典が献上され、日本への仏教の公式伝来(仏教公伝、552年または538年)が行われた。仏教の受け入れをめぐって蘇我氏(受容派)と物部氏(排仏派)の対立が起き、この後の政治史を大きく規定した。欽明天皇自身は仏教に好意的な態度をとり、日本の文化・宗教史の転換点を生きた天皇として知られる。
敏達天皇の治世(572〜585年)は、蘇我馬子と物部守屋の仏教受容をめぐる対立が深まった時期だった。天皇自身は仏教に距離を置いていたとされるが、蘇我氏の力が増す時代に在位した。敏達天皇の死後、後継者争いを経て用明・崇峻・推古と続く天皇位継承の過程で、蘇我氏が権力を確立していく転換期の天皇として位置づけられる。
聖徳太子は603年に冠位十二階を制定して氏族制によらない人材登用の仕組みを作り、604年に十七条憲法で仏教・儒教精神に基づく国家理念を定めた。遣隋使派遣による中国文化の積極的摂取と外交対等の実現も行った。日本初の本格的な成文法・官位制度を整備し、古代日本の律令国家形成の礎を築いた。