1567年、筑後岩屋城主・高橋紹運の長男として生まれた。豊後の名将・立花道雪に見出されてその養子となり、道雪の娘・誾千代を娶って立花家を継いだ。1586年の島津軍による岩屋城攻撃で父・紹運が城兵764名と共に玉砕した報を受けながらも、立花山城を堅守し続けた。その翌年、豊臣秀吉の九州征伐により島津氏が降伏すると、宗茂は秀吉に「西国一の侍大将」と称えられた。1592年の朝鮮出兵では碧蹄館の戦いで明の大軍を撃退するなど勇名を轟かせ、武名は朝鮮・明にまで及んだ。1600年の関ヶ原では西軍に属し、東軍の黒田長政・鍋島直茂と戦って敗退。戦後に改易され浪人となった。しかし2万石の旗本として仕えた後、1620年に旧領・柳川藩10万9千石を徳川家から返付された。改易後に旧領を回復した唯一の大名として後世に称えられる。1643年に77歳で没した。立花宗茂の柳川藩は今の福岡県柳川市として栄え、彼を主祭神とする柳川稲荷神社には地元住民の厚い信仰が今も続いている。