1837年、浦賀沖に現れた米国船モリソン号は日本人漂流民を送還しようとしたが、幕府は異国船打払令により砲撃して撃退した。長英は1838年、夢の形式を借りて登場人物の議論としてこれを批判する『戊戌夢物語』を著した。打払令の非人道性と対外政策の危うさを指摘した本書は写本で広く流布し、幕府保守派を激怒させた。鎖国下で幕政を正面批判する蘭学者の危険な情熱の結晶であった。
1844年6月30日、江戸伝馬町牢屋敷で火災が発生。規則により火災時は囚人を一時解き放ち、三日以内に戻れば罪を減ずる「切放」制度が適用された。長英は自ら囚人に火を付けさせたとも伝わる。彼は期限内に戻らず逃亡を選び、以後6年間、名を「沢三伯」と変え硝酸で顔を焼いて人相を変え、各地で潜伏しながら蘭学翻訳を続けた。西洋兵学書『三兵答古知幾』などを翻訳し、幕末の開明派に影響を与えた。
1850年10月30日、長英は江戸青山百人町の借家で幕府の捕吏に囲まれた。抵抗の末、自ら十手で頭を打ち砕いて死んだとも、捕吏に斬殺されたとも伝わる。享年47。脱獄後6年、蘭学の翻訳を続け幕府を批判し続けた不屈の生涯であった。翻訳原稿は友人に託され、死後にも一部が世に出た。蘭学者の中で最も激しく幕府と戦い、その光と闇を一身に体現した存在である。